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◆◆エッセイ 2◆◆    

◆2006.1.18  『ザ・ベストテン』 放送までのスケジュール 2 音楽現場から
音合わせで当日のオーケストラの音を音声さんに把握してもらい 同時にこれまた重要なタイムキーパーさん(細部にわたり時間をチェツクして総合的に時間を配分する役)が前奏は何十秒 歌に入り 間奏 2コーラスそして後奏は何十秒と 細かくチェツクし 台本に記入して演奏時間の集計を行い全体の振り分けを行うのです  
番組当初は音合わせに歌手本人が居たと記憶しておりますが 番組後半には歌い手さん所属の事務所のマネージャーが立ち会うのが常になりました
 

音合わせ
この音合わせが終る頃には カメラさんがそれぞれの位置についています
 
カメリハ(カメラリハーサル)です
5、6台のカメラを使ってこのカメラはこの角度から このカメラはこの角度からという演出家からの細かい指示をカメラ割りといいますが これに沿ってリハーサルを行います
 
代役さん登場
演出家の司令を受けたFD(フロアーディレクター)の秒読みで 当日出演の歌手の曲が始まります 私たちオケ軍団の演奏です 歌はと言うと歌の上手な代役さんが歌います このスタイルで本番同様に進行し 一曲ごとに2度3度と繰りかえされます
  

カメラリハーサル
1曲ごとに2、3度繰り返される
このようにしてスタジオ内での厳しいカメリハが行われ 当日演奏する曲が6,7曲の場合ですと終了するのが午後5時は過ぎています この後の約1時間が全員休憩で この間に食事を済まさなければ10時過ぎまで何も食べられません ホットするひと時です
 
午後6時すぎは本番で歌う歌手本人の音合わせが有ったり また本番寸前に駆け込む歌手があったりと その度々毎週スケジュールが違うのが常でした
 
 
ランスルー(本番同様に行われる通し稽古)
午後7時
ここで打ち合わせを終えた 黒柳さん 久米さん そして出演歌手の方々が揃い 本番同様のランスルーが始まります  全部のセクションの再確認です
私たちオケ軍団も最終チェック 念には念を入れた演奏をするのです
しかし無事ランスルーを終えても 必ずといって良いほど時間ギリギリ飛び込みの歌い手さんが居るのです 9時からの本番を控え直前にまた音合わせをすることは オケ軍団にとってはかなりの苦痛でした しかし番組の方針が完璧を目指している以上 これは必要な事でしたので 私は率先してタクトをとり当然の様に音を出してもらいました
 

ランスルー(通し稽古)
これは 今ですから書きますが・・・
番組当初はいくら1時間の休憩を挟んでいても実働10時間ちかい演奏になることが多かったので 演奏家の皆さんは相当辛かったに違い有りません 特に管楽器は人間の呼吸で音を出す上 唇を切る事もあり得るのです そして弦の方々の指のダメージもしかりです 

しかし全員プロなのです 私もプロを自負している以上 限界ギリギリの局面を乗り越えて来ました  オケの人たちの気持ち 言い分は私なりに充分理解していましたが あえて言葉 態度には出さず 何一つ知らぬ顔で最終回まで乗り切りました 統率者の孤独な使命です
そんな私の思いを察してくださっていたのか 我がオケ軍団がモメたことは一度もありませんでした 歌手の皆さんも我がオケ軍団に礼節ある態度で接していたのは この厳しい環境下で自然に築き上げられた番組の「品位」によるものだと思います
今あらためて申し上げますが 我がオケ軍団はさすがはプロ 番組に愛着をもち本当に良く頑張ってくれました これはTBSさんも認めて下さって居たと思います
  
 
さて本番15分前午後8時45分
我がオケ軍団は すでに調律されて居るピアノのA音によるチューニング(全員統一する為に出す音)を行い 生放送に備えます
 
そして午後9時 いよいよ生放送開始です 
   

◆2006.1.17  『ザ・ベストテン』 放送までのスケジュール 1
午前11時TBS Gスタジオにオーケストラが全員集合する頃にはすでにオケセットは勿論 歌い手のバックとなるスタジオ内のセットが3,4種類 そして登場ミラー・司会席が出来上がっています
これは 前夜より美術さんが不眠で建てこみ(セットを造りあげること)して仕上げるのです 午前中のカメラワーク(カメラの動ごき方のテスト)を終えたテレビカメラ5、6台ひっそりと置かれています 私はそのシーンと静まりかえった大きなスタジオに音合わせ開始時間30分前に入るのが習慣でした
 
 
まずサウンド・チェツクです
 
サウンドチェツクとは 歌手を支えるオーケストラの音を一つずつ取り上げて合体させてより良いサウンドを造り上げる工程で 音声さんに今日のオケの状態を診断してもらう事をいいます 音楽番組ですからスタジオの演奏を最高のミキシングで放送しなければいけません 音声さんも大変重要なセクションです
 

当日のスケジュール表 ほぼ時間通りに進行する
(写真は'85年ザ・ベストテン後期)
さあ大きな音があちらこちらから出始めました
先ずはドラムです ドラムセットには4本のマイクが用意されています 次にベース そしてギター1 ギター2 ピアノ ラテンパーカッション 締めにリズム系全体での演奏バランスをとります
  
弦4部には一人ひとりに小型精密マイクが付けられます 1stヴァイオリン 2ndヴァイオリン ヴィオラ チェロと進み 弦4部合わせた演奏でバランスをとります 
 
女性3部コーラス サキスホン5 テインパニー トランペット4 トロンボーン4 で一応終り 当日出場歌手の譜面より 全パートの音が出ている箇所を私が抜粋し 全員で演奏して当日の全体像を音声さんに把握してもらうのです
 
同じ場所 同じ楽器編成でも 毎回何かが違うのです 音声さんも私と同じ事を感じ乍ら居られたことでしょう 何がと云えないところが 人間界の現象でしょうし 人間界の味のあるところかも知れません
 
ここで生放送について少々書きますと VTR撮りと違い二度と同じ事は出来ません 一本の番組が放送されるには先ず素材(それぞれの歌手たちのこと)を元に内容を創ります 構成
演出 美術 映像(カメラ) 照明 音声 それぞれが やり直しのきかない生放送がより完璧であるよう挑みます 勿論私たちオーケストラもです  それぞれの部門が素晴らしい軍団となり一つに融合して完成させる総合芸術なのです
 
軍団と書きましたが これは私の表現なのですが 生放送は戦場さながらの様相なのです 演出と言う軍団 美術と言う軍団 オーケストラと言う軍団等々がそれぞれに最大限の力を出し切り 「今の時間」を生かす事にのみ集中するのが生放送なのです
 
私のテレビ生放送の体験は 『TBS歌のベストテン』 『歌のグランプリ』 『歌えファンファーレ』 『デラックス・リラックス』 『トップスターショウ 』そして『ザ・ベストテン』と ゴールデンタイムを歩かせて頂きましたが それぞれただ只懸命に オーケストラと言う軍団と共に 「今の時間 」に生きてきました
 
音楽は時間芸術とも言います 人生もたった一度のみです 一度だけの人生 過ぎ行く時間を 「二度とない今」として燃焼する充実感に浸って生きて来れたことは幸せだったのかもしれません
  
  
話を戻し 次は音合わせ
音合わせとは 当日出場の歌手の曲を演奏し 演出 音響 カメラ等などの軍団が 今日の音を確認するのです ベストテンの初期はこの音合わせの段階から歌手本人がスタジオ入りして音合わせをしたものでした
 
そしていよいよカメラリハーサルです  (次回に続く)
 

◆2006.1.12  『ザ・ベストテン』誕生
一月の寒さを感じると 寒さの中での譜面書き それも責任重大なスコアを徹夜で書いて居た時の事を思い出します
 
当時TBSは 『トップスターショー』 と言う非常に優れた音楽番組を放送していました スタジオからの生放送でワンマンショーも有ればジョイントもあり ジャンルにとらわれずタレントの意志を尊重して選曲するという 音楽番組としては大変クオリティの高いものでした  しかしその質に反して視聴率は取れませんでした 優れた番組イコール高視聴率には繋がらない典型と言えるのかも知れません
譜面を書き 棒を振っていた私は何故これが数字に反映されないのか プロデューサー・ディレクター諸氏と同じ悩みを共有していたのです  

番組が低迷すると 現場には恐ろしいほど敏感にそれを察知する環境が生れます プロデューサー諸氏が明るく振舞えば振舞うほど摸索や苦悩を重ねているだろうことを 私は感じておりました
 
そんなある日のことです ディレクターT 氏と新番組の作成についての打ち合わせがありました テレビではパイロット番組と言っていましたが 『トップスターショー』の代替番組です
 
「今までに無いスタイルでの音楽番組を作りたい・・・」
 
これは責任重大です 結果が悪ければ又一から出直し 引き返す事の出来ない仕事です
民間放送宿命の視聴率  当時シングル(一桁)の数字を記録してしまうと いかに内容の良い番組でも打ち切り 新番組へと移行するのです
 
うろ覚えの記憶を手繰りますと 徹夜仕事をした事 寒い寒い時期であった事 重要な仕事でおおきな責任感と重圧を感じていた事 曲数は十数曲とかなり多かった事 重い気持ちでの徹夜だった事・・・様々な意味で『重い』ものが胸にありました 
しかし音楽的内容は堂々と胸を張れる内容にしようという思いでスコアを書きました 仮りに失敗に終ったとしても「音は良かった」という印象は残したいと言う私の見得も有ったのだと思うのです
 
 
そしていよいよ その日が来ました・・・奇しくも28年前の今日 1978年1月12日(だったと思います)
 
『ザ・ベストテン前夜祭』
 
『ザ・ベストテン』幕開けの特番です 記憶する結論から申しますと  視聴率20数パーセント 当時の音楽番組では想像も出来ない高視聴率でした
 「タレントが今現在何処で何をしているか 報道番組的感覚の持ち味ですね」とプロデューサーD氏と語り合い 瞬間の鮮度を前面に出したことがまさに功を奏したのでしょう
 
ディレクターT氏を中心にTBS音楽製作部総員で成功させたこの『前夜祭』を皮切りに 日本中で『ザ・ベストテン』愛好者が続々と増えました 
 
そして続々と現れるアイドル やがて視聴率の金字塔を打ち建てることになるマンモス番組への成長 
時代は新しい夜明けを迎えたのです
 
※写真は『ザ・ベストテン前夜祭』のものではありません
  

◆2006.1.11  母とバチュラ
私の友人に犬のブリーダーがいて 当時はまだ数が少なかったプードルをプレゼントしてくれました 血統証の正式名は「アドミラル バチュラ」=「バチュラ提督」 物々しい名前の男の子です

このバチュラを母はこよなく愛し また徹底した「英才教育」をしました 今のように犬の訓練所がない時代に獣医と一緒に訓練に次ぐ訓練 手入れは怠りなく −当時男性の散髪が800円(ぐらいだったと思います)の時代 バチュラのトリミング代は3000円でした− こうした努力の甲斐あってバチラは当時の犬の審査会で みごと通産大臣賞を獲得 他にも数々のトロフィーを持って帰ってきました
 

家族で記念撮影
そんなバチュラにはお見合いの話がずいぶんとありました 有名な俳優さんやら女優さんのお嬢ちゃまたちがバチュラの元にやってきました 可愛く赤いリボンでおめかしをしてちょこちょことバチュラに近づいてくるのです
ところがです バチュラはわたしの首にしがみつき恐怖におののいてうなるばかり どのメスもすべて拒絶してしまいました どうやら自分のことを人間だと思っていたようで とうとう彼は終生子孫を残すことはありませんでした・・・やれやれ
 

カメラを向けるとおすましでポーズ
バチュラは私が大好きでした この頃私はすでに仕事も忙しく 麻布の仕事場で寝起きすることが多くなり自宅に帰ることも稀になっていました 時間が出来たとき予告なしに不意に帰宅するのですが バチュラはそれを予感して 朝からそわそわと落ち着きがなくなるのです いつも母はバチュラの様子で「ああ今日は忠彦さんがお帰りになるのね」と分かったのだそうです
 
私が帰ると大変です 片時も離れず私のどこかに体をつけているのです そして「バチュラたばこ持ってきて」と言うとさっとたばこを咥えて来ます 「あれ?マッチは?」というと今度は慌ててマッチを咥えてきます 新聞でもなんでも持ってきてくれました 時には叱られることもありましたがこの時も逃げることはなく ただうなだれてボロボロと涙をこぼすのです バチュラは人間の言葉を完全に理解してました
 

私が帰ると大騒ぎ
しかし優秀と言われた我が家のお坊ちゃんも実は『お勉強』が嫌いだったようです
 
教育熱心な母は 今度は画用紙に書いた数字をバチュラに根気良く教え出しました そして部屋の向こうにカルタのように並べた中から指示した数字を持ってこさせるのです 元々賢い子です 「1」から「6」まで順調に覚え さあ次は「7」 というある日のことです
母がいつものように練習を始めようとしたのですが 用意した「7」がどこにもありません 犯人はバチュラでした 画用紙をこなごなに小さくちぎって庭に掘った穴に隠してしまったのです 彼は本当はこの『お勉強』がいやでいやで仕方がなく 数字の画用紙さえなくなれば『お勉強』をしなくてすむ と思ったようです 
母はこの日を境に数字の『お勉強』をやめました 可哀想に思ったのでしょう
 
 
今にして思えば母は忙しい私の代わりにバチュラの世話を焼いていたのかもしれません 余談ですが 父は父で当時私と同じ年頃の 美術商に奉公に来ていた青年を我が子のように可愛がってました 家に招いてはお茶のお作法やら美術品の扱い方の指南 何くれなく面倒を見ていたそうです
孝行したいときに親はなし ですが私は20代から多忙多忙ですでに両親とゆっくり会話する余裕すらなくしていました 両親の気持ちを思うと今更ながら申し訳ない思いでいっぱいなのです
 


◆2006.1.7  正月・両親と過ごした日々
新年明けましておめでとうございます
引き続き今年も思いつくままにエッセイを書き綴って行こうと思います よろしくお願いします
 
今日は気分を変えて 私の10代後半から20代はじめの正月行事 そして両親とすごした思い出を記してみます
 
 
元旦 お屠蘇祝いのあとは 父と弓道場での初射会に出向き 10センチほどの金的を射止めるのが年頭行事でした
 

父と弓道場にて
父は弓道五段錬士 私は4段共に小笠原流
弓道二本継指免許で 小笠原清信御宗家の直弟子でした 父への敬意を払いわたしは五段以上とることを控えましたが 内心は父への闘志はかなりのものだったと思います いつでも父を追い越してやろうという野心をもっていました 父子というものは古今東西永遠のライバルといえましょうか

また当時通っていた稽古場でご一緒した弓道愛好者はほとんどがご年配の方で それぞれの歩んできた重厚な歴史、人生観などを伺う機会も度々ありました この交流で弓以外にも学ぶ事が多々あったのは有難い事です
  

道場にて稽古
茶道を好んだ父母と来客の御接待も楽しいものでした 幸いなことに父は表千家 母は裏千家でしたので 私は表 裏 両方をながめることが出来ました ですので父母双方からお茶を指南されたわたしは表裏折衷流なのかもしれません
 
月に二回表の先生の出稽古がありましたが これがまた楽しいものでした わたしはこの先生のあだ名を密かに「がまぐち」とつけていました 口がばっと大きく笑った様はまるでがまぐちを広げたようでした 陰で「がまぐち がまぐち」と言ってはよく母に怒られたものです

父があつらえてくれた矢を
手入れする
 
稽古を終えてからその大きな「がまぐち」においしそうにお酒を流し込む先生 下戸の父は パイプをくゆらせながらのお接待 母が忙しそうにお世話していたことが 昨日の様に思い出されます
 
(右の写真は夏のものです 何しろ昔のことですので 冬の写真が出てきません)
 
またこの時期に父に美術商のハシゴの楽しさを教わり 刀剣が趣味だった父からその味わいを教わったものでした
 

両親をお客にお点前
音楽以外は弓道場通い 美術店歩き 楽しい 若い日々だったと思います しかしこの頃を境に私の仕事が忙しくなり 両親と過ごす時間はめっきりと減ってしまいました
両親と趣味の時間を共有できたこの時期が 今にして思えば親孝行らしいことも出来ずに終わってしまった私と両親との幸せな一時だったのかもしれません