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横浜の家に落ち着き 早速ピアノの先生を探し個人レッスンを受けるようになりました 最も必要な聴音の先生にもつき私は着々と勉強を進めました 手製の板ピアノを見かねた父母は父の焼け残った友人宅からピアノを借り出してくれ 嬉しさで心が高揚しました
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| 中学一年生 |
予定していた中学にも入り −2年生から海軍兵学校に飛び入学のはずが音楽に変わってしまったのは予定外でしたが− それは充実した毎日になりました 横浜から東京への通学は当時の交通事情ゆえ距離的に辛い思いも有りましたが そんな思いも音楽が吹き飛ばしてくれました ピアノに打ち込む毎日 そして父が求めてくれた音楽書と楽譜は大きな喜びでした この頃から生意気にもピアノの限界を知り密かに作曲を始めていたのです しばらくして戦後の苦しい中 両親がなんとピアノを買ってくれたのです もう
天にも昇る思いです あの感動と嬉しさ 感謝の思いは今も忘れられません 両親はあの板製ピアノに熱中する私を哀れに見て居たのかもしれません
ここで私は又大恩人にめぐり会います 学校の国漢の先生です 昭和21年国会で日本には漢文が必要である事を大演説し アメリカの占領政策に真っ向から立ち向かい漢字を日本に残した福島正義先生です のちに大学教授になり 学者では二人目の剣道十段範士をお受けになり 平成六年ご逝去まで生涯を漢学にささげた大先生です
この先生が私に目をかけて下さり横浜からでは大変だからと牛込加賀町の先生宅に住み込みを提案してくださいました 父母もこの御厚意を是非お受けするよう私に勧めました 誠に有りがたいことです しかし先生のお宅に居候するということは同時に私の音楽の時間が無くなることを意味します 先生の御厚意と私の本心とは道が全く違い当時音楽をするとは言えない状況でした 困った事になりました
結局先生のお宅にお世話になることにはしたのですが 先生には密かに御茶ノ水のピアノ教習所を探し出し週に一回レッスンに通い 夜は遅くまで読書漬けでした リムスキーコルサコフの管弦楽入門 アンリィー、ビュセルの管弦楽法その他音楽書をむさぼり読みました 先生宅ですので机の周囲は一般教科書を広げていましたが実は音楽書をよんでいたのです 大先生は遅くまで良く勉強する長洲だと思っていらしたと思います
しかしこのような日々が長く続く筈は有りません 半年程で横浜に戻ることのお願いを申し上げ 何とか御許しを得て横浜からの通学が復活しました
大先生半世紀を過ぎて居りますが本当に申し訳御座いませんでした 今は先生のご令息正昭さまと親しくさせて頂いて居ります どうか昔を御許しください
(この辺から福島大先生の正道の話は裏に白紙で入れさせて頂きここにかいて行く事と同時進行している事をご理解下さい フイルムの早回しをして行くと思って下さい)
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| 作曲家を目指して |
横浜にもどりますと不思議なことに私の周囲にアマチュア音楽家達が続々と集まり出したのです
皆よく勉強しており啓発し合える人々で後にこのグループから2名がプロオーケストラに入りました(数年で退団してますが それなりの理由が有ったのでしょう)
類は類をよぶと言いますが バレー・モダンバレー 演奏家 声楽家 文士まで友人になました 連鎖的に誰かが他職種のまたその仲間を連れて来るのでやがてそれは大きな輪に広がり我が家は志士たちの溜まり場と化しました 会話も熱を帯び実に充実した日々でした 全員私の年上でしたが この均衡を崩すまいとあえて私は年を隠し通しました
横浜は実に良いところでした 当時海は一望静かな街並みは散歩にはもってこいです 自宅からすぐの弓の道場通いは父との会話の良い道のりでした
道場にはお暇を持て余す武人の集会所のようになっており あらゆる武道の話で持ちきりでした 父と私はこの山手元町弓道場に小笠原清信お家元の出稽古を受け宗家直伝の弓を学んで居ましたが 弓の後元町を散歩 私が戦後の元町愛好族の一期生だったと思います 焼け跡からの出発ですがそれぞれの店が流行の発信を競っていたのは頼もしく 「これからやるぞ」の雰囲気で一杯でした それは私の作曲への情熱と同じ様に希望に燃えていました
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