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◆◆エッセイ 3◆◆    

◆2006.4.12 少年から青年へ
 横浜の家に落ち着き 早速ピアノの先生を探し個人レッスンを受けるようになりました 最も必要な聴音の先生にもつき私は着々と勉強を進めました 手製の板ピアノを見かねた父母は父の焼け残った友人宅からピアノを借り出してくれ 嬉しさで心が高揚しました 
 
中学一年生 

 予定していた中学にも入り −2年生から海軍兵学校に飛び入学のはずが音楽に変わってしまったのは予定外でしたが− それは充実した毎日になりました 横浜から東京への通学は当時の交通事情ゆえ距離的に辛い思いも有りましたが そんな思いも音楽が吹き飛ばしてくれました ピアノに打ち込む毎日 そして父が求めてくれた音楽書と楽譜は大きな喜びでした この頃から生意気にもピアノの限界を知り密かに作曲を始めていたのです しばらくして戦後の苦しい中 両親がなんとピアノを買ってくれたのです もう
天にも昇る思いです あの感動と嬉しさ 感謝の思いは今も忘れられません 両親はあの板製ピアノに熱中する私を哀れに見て居たのかもしれません
 
 ここで私は又大恩人にめぐり会います 学校の国漢の先生です 昭和21年国会で日本には漢文が必要である事を大演説し アメリカの占領政策に真っ向から立ち向かい漢字を日本に残した福島正義先生です のちに大学教授になり 学者では二人目の剣道十段範士をお受けになり 平成六年ご逝去まで生涯を漢学にささげた大先生です 
 
 この先生が私に目をかけて下さり横浜からでは大変だからと牛込加賀町の先生宅に住み込みを提案してくださいました 父母もこの御厚意を是非お受けするよう私に勧めました 誠に有りがたいことです しかし先生のお宅に居候するということは同時に私の音楽の時間が無くなることを意味します 先生の御厚意と私の本心とは道が全く違い当時音楽をするとは言えない状況でした 困った事になりました 
 結局先生のお宅にお世話になることにはしたのですが 先生には密かに御茶ノ水のピアノ教習所を探し出し週に一回レッスンに通い 夜は遅くまで読書漬けでした リムスキーコルサコフの管弦楽入門 アンリィー、ビュセルの管弦楽法その他音楽書をむさぼり読みました 先生宅ですので机の周囲は一般教科書を広げていましたが実は音楽書をよんでいたのです 大先生は遅くまで良く勉強する長洲だと思っていらしたと思います 
 しかしこのような日々が長く続く筈は有りません 半年程で横浜に戻ることのお願いを申し上げ 何とか御許しを得て横浜からの通学が復活しました
 
 大先生半世紀を過ぎて居りますが本当に申し訳御座いませんでした 今は先生のご令息正昭さまと親しくさせて頂いて居ります どうか昔を御許しください 
 
(この辺から福島大先生の正道の話は裏に白紙で入れさせて頂きここにかいて行く事と同時進行している事をご理解下さい フイルムの早回しをして行くと思って下さい)
 
作曲家を目指して
 横浜にもどりますと不思議なことに私の周囲にアマチュア音楽家達が続々と集まり出したのです
 皆よく勉強しており啓発し合える人々で後にこのグループから2名がプロオーケストラに入りました(数年で退団してますが それなりの理由が有ったのでしょう)
類は類をよぶと言いますが バレー・モダンバレー 演奏家 声楽家 文士まで友人になました 連鎖的に誰かが他職種のまたその仲間を連れて来るのでやがてそれは大きな輪に広がり我が家は志士たちの溜まり場と化しました 会話も熱を帯び実に充実した日々でした 全員私の年上でしたが この均衡を崩すまいとあえて私は年を隠し通しました
 
 
 横浜は実に良いところでした 当時海は一望静かな街並みは散歩にはもってこいです 自宅からすぐの弓の道場通いは父との会話の良い道のりでした
 道場にはお暇を持て余す武人の集会所のようになっており あらゆる武道の話で持ちきりでした 父と私はこの山手元町弓道場に小笠原清信お家元の出稽古を受け宗家直伝の弓を学んで居ましたが 弓の後元町を散歩 私が戦後の元町愛好族の一期生だったと思います 焼け跡からの出発ですがそれぞれの店が流行の発信を競っていたのは頼もしく 「これからやるぞ」の雰囲気で一杯でした それは私の作曲への情熱と同じ様に希望に燃えていました
 

◆2006.4.1 少年のころ2−放送界デビューはNHK地方局−
      母、姉 そして ボク 長洲です  
国民学校1年生 
海軍兵学校に入りお国を守ります
 
前回の写真をさがした折に 第二次大戦時父母が空襲の戦火をまぬがれるために作ったコンクリート製防空壕の中で助かった品々が出てきました その写真を頼りに私の幼年期以降の記憶をたどって見ます
 
東京牛込に生れ姉と二人姉弟まだ平和な日本でした 父母の深い慈愛に包まれながら 幼稚園に4歳で入園 毎日が幸せな日々で思うがままの自由を謳歌していました  
しかし社会は陸軍青年将校のクーデター未遂2.26事件以来軍国色が強まり始めて来ました 小学一年生のころには既に軍国色一色に染まり当然のように私も立派な愛国少年に成長していました 
昭和16年12月8日 日・米英の第二次世界大戦は開戦し 前エッセイの通り学童疎開をすることになります そして忘れらない人々との出会いがあり そしてご恩を頂いたものの 小学4年生でがんばり過ぎたのか体をこわし東京に戻り通院生活を余儀なくされました しかし国の命令もあり縁をたよりに今度は縁故疎開で近県の女子師範付属小学校の5年生に編入しました この学校の規律の厳しさは東京の学校以上で 私の為には良い経験となりました
 
私の放送界での人生の始まりは何を隠そうこの時でした  戦意高揚のためでしょう 東京から親元を離れがんばっている少年としてNHK地方局で感想文の朗読をし 更にア・カペラで唱歌一曲を歌ったのです
感想文は何を読んだのやら全く覚えていないのですが当然『がんばっている少年』らしい内容だったでしよう  唱歌は早春賦 『春は名のみの風の寒さや・・・・』多分この曲だったと思います ただガラス窓に大勢の人々 箱のような部屋でメガネを掛けたおじさんが(たぶんアナウンサーさんでしょう)手まねで進行を指示されていた様なことをおぼろげながら記憶してます いずれにせよ私の放送界デビューはこのNHK地方局でした
 
母はこれが最期の写真になるかも知れない
 と思い私を連れてこの写真を撮りに行ったと、
疎開前夜の思いを語ってくれました
 
 
東京は大空襲で焼け野原となり私の牛込の家も焼失しました 幸いなことに両親や姉は無事で 敗戦色濃くなったある日 私を呼びもどしに両親が疎開先まできてくれました  たくさんの人々と涙の別れをし仮住まいの麹町に戻ったのは五月頃だったでしようか  
 
そして8月15日終戦 新しい日本が生れました  
私はこの日まで愛国少年として中学から飛び入学して(旧制度では成績如何で中学2年からいきなり大学陸士や海兵への飛び入学をすることができ 当然自分もそうするものと信じていた) 海軍兵学校に入り特攻隊員としてお国の為に敵に突っ込むことを少年ながら硬い硬い信念として持っていましたので 敗戦はそれはショックでした  これは私だけではなく当時の青少年は皆同じ思いだったと思います
硬い信念の目標を失った私は何処に道を求めるべきか 少年ながら大いに悩みました悩み悩みの結果決心をしました
 
 そうだ好きな音楽をやろう
 
しかし焼け野原の東京にピアノが残っていることはまれで個人が所有するなどということはまだ夢物語のような時代です 私は平板にピアノの鍵盤を描き黒鍵は黒で塗りつぶしてそれで運指練習を始めました 学校では先生の使用する教師用教本1年分をすっかり暗記するほどでしたので一心不乱に音楽に漬かりました  幸いなことに私が通った牛込の小学校の一角は焼け残りピアノも無事でした 休み時間が待ちどうしく 休みになると音楽室に駆け込みピアノ 終業後もピアノ 遅くまで弾いていて先生に注意される始末でした  幼稚園のころ姉の友達の家でバイエルを少々教わっただけなのですが その記憶は強くつよく甦ってきて 自己流ですがスケールを右手のみ 左手のみそして両手でといやと言うほど弾き家に帰ると手製の板ピアノと向き合います 今思い返してみても本当に恐ろしい情熱でした
 
そんな時父の仕事の関係で仮住まいから横浜の静かな家に転居しました

◆2006.3.27 少年のころ1−疎開・タカおばあ様−
この辺で私の 少年の頃の昔の話をさせていただきます
昭和20年の東京大空襲で牛込の私の家は焼失し麹町富士見町に仮住まいをしていました 私は疎開児童で地方に居たお陰で空襲を体験せずにすみました
そして8月15日 新しい日本が誕生しました そのことについては色々と書きたいのですがまたの機会にします
 
小学4年の時学童疎開で関東近県のお寺に集団疎開の一人として初めて親元を離れました 4年生にしては大柄のせいか通学の引率を始め疎開児童の団長のような役目につかされました 朝は人より早く起床定時10分前に起きます ふとんを整理し身づくろいをしてお寺の本堂板の間に正座し大太鼓を前に起床5分前を待ちます 「総員起し5分前 総員起し5分前」と大声で叫びながら大太鼓を叩き皆を起こすことから始まりました そして食事登校の引率 下校の引率全員60名数名が無事にお寺に戻るまでが毎日のお役でした 今思いますとお寺の小僧の様な体験です
 
此処で問題が一つ 御弁当です お寺でお弁当を持たせてくれるのですがそれをかばんにタテに入れますと食料事情減少の時代です 学校に着きお昼にあけると哀れご飯は弁当箱半分に偏っているのです これが隙あらば疎開児童をいじめてやろうと虎視眈々狙っている地元の学友たちの格好の『餌食』となり 「疎開のヤツは弁当半分だぁー」とはやされるはめになるのです それが口惜しくて口惜しくて私は「通学の時はお弁当を手に平らに持ち揺らさないように!」 と皆に厳命しました
それ以来かろうじて『スキマ』は少なくなり東京っ子の体面は保てました
国は戦時体制 学童はみな親元を離れ東京恋しの思いです 立場上そんなことはおくびにも出さず皆を激励し力づけて居ましたがなにしろ小学4年生です 皆と同じくまだ親が恋しい年頃 かなり辛い思いでした
 
     大恩人 高橋 タカ おばあ様
     60数年大切にしている写真です 
そんなある日 通学路の途中一軒のお宅のおばあ様が買い物の帰り一人で歩いている私を呼び止め家へ招き入れて下さったのです 何を思ったか言葉を交わしたこともない東京っ子の私に親しげにお茶とお菓子をご馳走してくれました
それを機に毎週土曜日の夕方になるとお呼ばれするようになり 夕飯 お風呂 雑談 お菓子とおもてなしを頂く事になり 私もそのご好意に甘えました 豊かな時代ならいざしらず この戦況下見ず知らずの子供にここまで温情をかけてくれるなど信じられない事です 緊張と寂しさで一杯だった私はどんなに慰められ励まされた事でしょう この御恩は未だに忘れられず感謝で一杯なのです
 
数ヶ月におきにお寺に面会に来た私の父母にもこのおばあ様は親しくして下さりました 敗戦も間近の人心荒廃の日本にもこのような善意の御厚意を頂いた事実もあったのです
この高橋タカおばあ様すでに去られ 私をもてなして下さった当時お嫁さん敏子様も昨年12月に84歳でご逝去されました 今は三代目のおばあ様のお孫様と親しくさせて頂いて居ります 還暦であられる三代目のご当主は おばあ様はご子息様(三代目のお父様の兄上)が戦死なされた悲しみを埋めるように私にご厚意を向けて下さったのではと話されてました
おばあ様 御子息清様(お世話になった当時のご当主) 奥様敏子様のご冥福をただただお祈り申し上げるのみです
 戦時中に頂いた御恩すでに60数年前とはいえ 私にはこの御一家を思う度に私の戦後は未だ終って居ないの感が有るのです
  
 
※集団疎開・・・第二次大戦で日本は米軍の連日の空襲を受け国の命令により少年少女小国民を守る為に被害を受けない近県各地に避難の疎開をしました 当時駅に送りに来た父母とはこれが最後の別れと誰もが思ったものでした
縁故疎開とは親類縁者の処にお世話になる事をいいます

◆2006.3.5  黒柳守綱先生のこと
黒柳徹子さんのお父上がヴァイオリンの超一流演奏家黒柳守綱先生だということはご存知の方も多いと思います 旧名 新交響楽団・日本交響楽団(現 N響)のコンサート・マスター(首席奏者)として戦後の日響を引っ張った方で 技術人望共に優れオケの信頼厚く またオーケストラファン憧れの演奏家として伝説の方でした
 
黒柳守綱先生はレコーディングスタジオ演奏家としても活躍されていました
音楽界のシステムとして演奏家をその仕事の要請で集めるインスペクターと言う仕事がありますが 先生をコンサート・マスターとして迎える人選は それは大変贅沢なものでした 
そんな先生と初めて仕事をさせていただいた時の感激は今でも忘れることができません 先生は眼光の鋭さの中に温かみを感じさせ いつも相変わらずの存在感に満ちて居る方でした
 
レコーディングスタジオでの先生は勿論トップです 一度演奏しますとボーイング(弓の上下)その他大事なポイントをすらすらと譜面に書き込まれます 次席の奏者が先生の肩ごしにそれを見て書き写しそれが次席から次席へと伝わり あっと言う間にヴァイオリンセクションが統一されます あとはミキサーさんの(録音技師)の腕次第という訳です 
 

レコーディング風景1
(残念ながら写真に黒柳先生は
いらっしゃいません)
 
数の多い録音の時はリズムその他を先に録り(写真下)その上にストリングス他を乗せるという録音方法も在ります これは大変合理的です のちの『ザ・ベストテン』後期で在来のテープの上に新しくオケのナマ音を乗せるのに この長い経験が大いに役立ちました

曲によってはリズム、ブラス等を先に録音しその上にストリングスのみを乗せる
場合もありますが そんな時も先生の統率力のお蔭でまとまりが早く その仕上がりは素晴らしいものでした
 
また私が他のセクションとの絡みでご意見を伺う事度々でしたが その都度心快く指導して下さり 私にとって先生との仕事は忘れられない想い出の数々なのです  
 
私は若い頃からこのような名演奏家の方々に恵まれて居ましたが本当に幸運なことだったたとあらためて思います
 

レコーディング風景2
 
TBSテレビのレギュラー番組『火曜歌謡ビックマッチ』で 私は始めて黒柳徹子さんと仕事をご一緒しました 
そんなある日 レコーディングスタジオで先生とお会いしましたので
「今 お嬢様とレギュラー番組でご一緒させていただいています」とご報告しますと
「わがままな娘なので・・・」と語尾を濁され いつもの鋭い眼差しが優しい微笑みとなっていました  
超一流の演奏家が慈愛に満ちた父親の顔をみせたひと時でした これは徹子さんには未だにお話ししていませんが 私だけが知る超一流の演奏家が見せた父親の顔として大切にしています 
 
 
いま思いますとあの時が先生と私の最後の仕事だったかもしれません 
守綱先生は徹子さんと私がご一緒した二度目のレギュラー番組『ザ・ベストテン』全盛期のころ 御逝去なされました
 
名演奏家黒柳守綱先生 巨匠逝く・・・
 
徹子さんのお話では 毎日ヴァイオリンを出しては磨かれるという晩年を過ごされていたようです 若い音楽家の為に先生は 音楽財団を創立する御予定だった由 多くの人々の心の中に それぞれの想いを残した至高の芸術家でした
 
 
黒柳徹子さんとお会いした折には 当時のお話をして先生を偲びたい思いです
 

◆2006.2.13 三部合唱曲楽譜配布のお知らせ
 
 昨年11月18日に仏教伝道協会新作コンクールで第1位をいただいた「いつくしみーふりそそぐ光りー」の三部合唱曲楽譜の印刷が出来ました
本選ではオペラ歌手佐藤光政氏が熱唱しましたが 今回は『天使の歌声』をイメージしあらためて三部合唱曲に書き直しました 幼稚園 小学 中学 高校 大学のコーラス部社会人コーラスまたはママさんコーラスと広い層での多くの方々に歌って頂けることを願っております また都内などで私が動ける範囲であればアマチュア合唱のお手伝いもいたしますので当サイトのメールにてご相談ください。これはわたしが天から与えられた「お役目」、すなわち基本的にボランティアとさせていただきます。
 
トップページからリンクしている『受賞曲「いつくしみ-ふりそそぐ光-の三部合唱曲楽譜の配布をしております』のページでもご案内してますが、楽譜配布についてのお問い合わせは仏教伝道協会事務局担当小川様までお願いします。
03-3455-5851   bdk@bdk-jp.org 


 
コンクール応募の際 詞 曲を書き また今回三部合唱曲という新たな形で曲を生まれ変わらせることが出来ました これは私自身の心の今を知る上で 大変大きな教訓となりました まだまだ道遠し道遠しですが 一度だけの人生 研鑚に励みたいと思っております
 
今回のコンクール主催者であり 新曲普及に尽力していただいる仏教伝道協会のことに少々ふれます この協会は仏教界の中でも超宗派であり 創設者である初代会長沼田惠範氏が世のために自らの財を投じて起こされた財団で 現在はその活動の場を世界にまで広げ精力的に事業展開をしております 
昨年11月の音楽コンクールはその事業の一環として「渇き切った現代に潤いを与える曲を世に出したい」という現会長沼田智秀氏の発願により実現しました
私は協会にさわやかな印象を受け応募しましたが 今回大変栄誉な第一位そしてご縁をいただき 微力ながら事業の一端を担えればと合唱曲を新たに作りました 今後も音楽を通じて何かしらのお役に立ちたいと願っております
 

 
またトピックス2と重複しますが 今月4日 中外日報に私のインタビュー記事が再び掲載されました
インタビュー記事 「生きる活きる」
 
中外日報ホームページでも同じ内容の記事がご覧いただけます
 
中外日報についても少々ご紹介させていただきます。
本紙は100年の歴史を持つ日本で唯一の総合的な宗教文化専門紙です 昭和30年代には僧侶で直木賞作家の今東光氏が社長をし 紙面内容は内外の宗教界の動向 教学から宗教教育 宗教関連産業 それに出版 芸術 文化 健康 福祉と多方面にわたります 文豪・菊池寛氏や直木賞作家・藤本義一氏、国民的作家といわれる司馬遼太郎氏などが連載を書いたりと 本紙ゆかりの作家として名ををつらねています
 
高名なご僧侶や学者の先生方々が記事を賑わす中 三度にもわたり受賞や私事に紙面をさいていただきましたことを感謝し この場を借りて御礼申し上げます
  
受賞曲「いつくしみーふりそそぐ光りー」の三部合唱曲楽譜
「いつくしみ−ふりそそぐ光−」(2.48MB)


  
 
◆2006.2.2  今だから告白 −カメラ置き場が勉強部屋−
  
『ザ・ベストテン』の話から少々脱線して、今まで誰にも言うことのなかった秘話を少々お話します
 
生放送で要求されるのは「正確な時間」です これは絶対条件で番組というのものが時間割で組み立てられてる以上どう動かしようもないルールです  
プロデューサーもディレクターも「長洲であればきっちっりとタイムを合わせてくれる」という信頼をおいてくれておりましたが 時間内に演奏を終えるということは簡単なように見えて実は並大抵のことではありませんでした
では私がその要求にどう答えたか
  
 
歌い手の曲の多くは 通常イントロ8小節 歌16小節 間奏8小節 2番歌 16小節 後奏4小節 と 大体1曲が52小節前後で構成されて居るものが多いのですが コンサートなどの演奏とは違い 生放送では決められた時間に正確に演奏を終えなければいけません それも1分1秒まできっちりとです
 
と 言うのは 民間放送の絶対条件 スポンサーの『CM』が入るからです 極端な話 演奏中だろうが話してる最中だろうが必ず挿入しなければいけないのがこの『CM』です 『CM』入りまでのタイミングを失敗することなくうまく繋ぐことが私に求められていたテクニックのひとつでした
レコ大 世界大会 ベストテン 他の生放送全て同じでしたが 曲の終わり方 そして『CM』の入り方はとても重要なのです
 
当時の『CM』はのりしろが30秒必要でした スイッチが入ると嫌が応でも30秒後には自動的に『CM』が流れてしまいます つまり私たちオケ軍団の演奏中にすでに『CM』はスタートしているのです スイッチONから30秒後に演奏がピタリと終わり 同時に『CM』が綺麗に流れる というシナリオ通りでなければならないわけです
『ザ・ベストテン』では「曲が終わり−余韻を残しながらCM」がお約束のパターンでしたが 裏にはこうしたカラクリがあったわけです
  
 
生放送の仕事が多い私にとって毎回がこの『何秒』との戦いでした これが少しでも狂えば私はもちろん番組の評価も落ちます 厳しい業界ゆえ2度目のチャンスさえ与えられなくなることすらあるわけです しかしこの『何秒』をカウント出来る能力を持って生まれる人はいないわけで もちろんわたしも最初からさっと出来きるようになったわけではありません 
 
『ザ・ベストテン』が始まる前の『TBS歌のベストテン』の時期に 私はなんとかして曲のテンポを体に付けようとストップウォッチを二つ前に置き 1小節を1.5秒から1.6 1.7そして2.0 2.1 2.2のように1小節4秒までを0.1秒刻みに身に付くように 訓練をしました 
 
東洋一と言われたTBS のGスタ内の カメラが5、6台置ける大きな部屋でした すでにカメラはスタジオに出払いシーンとしていています
ADさんにお願いして 椅子 小机を用意してもらい VTRの間をぬってはストップウォッチとにらめっこが始まるのです  

こうしてストップウォッチと対決を始めてから3ヶ月たち半年 1年と過ぎごろには かなり高い確率の0.1秒が身について来ました
 
しかしいくら私が努力をしたところで人間の能力には限界があり 何百回とあった生放送を1回もミスすることなくやり遂げるということはほぼ不可能に近いことです もちろん完全なテンポを気にしつつもオケとの心の通じ合い 調和にも細心の注意を払わなければいけないわけで 尋常な神経ではこなせない『荒行』とでも言いましょうか 
でもなぜかそれが毎回クリアーできました これは私にだけしか分からない感覚かもしれませんが 「自分以外の大いなる力をお貸しいただいた」としかいいようがないのです 私一人の力では到底成せる技ではなかったと今でも思っています
 
 
カメラ置き場での勉強で0.1秒を身に付けて下さり 崖っぷちを歩むが如くの本番を無事乗り切らせてくれた神仏に 重ねて感謝の思いです
 

 
ザ・テレビ局 ブラウン管に
栖む人々


当時テレビ界で活躍していた人々をピックアップした桑原宏氏著書 当時の私の様子も詳しく書いていただいてます