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◆◆エッセイ 4◆◆    

◆2006.5.22 第3回東京音楽祭世界大会 現場より
 東京音楽際世界大会も第3回を迎えました
 まだ2度行われただけの世界大会でしたが すでに世界の音楽業界には知れ渡り エントリー希望が世界各国よりかなり早くから寄せられていたようでした
 
 特別審査員として いよいよあのフランク・シナトラが日本のステージに上がることになり 特別ゲストもシャーリー・バッシィーと豪華版です

  
 前年の通り東京プリンスホテルでの面接も順調に進みました 来日のアーチィスト達は 日本の私達の話を仕入れて来て居るようで 気持よく話が前に進みます これは有難い事でした 
 
 音合わせはTBSのGスタジオで行われ これも順調でした ひとつ印象的な想い出が有ります 
 この回金賞受賞のスリー・ディグリィーズですが 当時まだ新人で大きなステージは初めてらしく スタジオの端に三人でつつましく ひっそりと佇んで居たのは初々しく 今にして思えば貴重な光景でした どこの国の新人さんも場慣れしていないのが良く分かります  後にこの三人は日本での大ヒットがアッと言う間に世界に広がり 大スターへと昇りつめたのです
 
 
 さて当日TBSの決まりのカメリハにも歌手の皆さんは従順で 流れる様に進行したのは見事でした あの第1回の痛い思いは何だろうと思うとともに あれが有ったからこそ この順調さを得られているのだ の思いでした(エッセイ「第1回世界大会」ご参照ください) 

 まず大賞はルネ・シマール(カナダ)  「みどり色の屋根 」で 特別審査員フランクシナトラ賞と2つの賞を得ました この12歳の少年の広がりの有る歌唱には誰もが讃美の言葉のみで 同じステージで指揮をしていた私も演奏しながらその歌唱力に感動し その広がりに酔ったものです
 
 シナトラ賞でルネ・シマールの肩を抱いたシナトラ氏は「このまま成長するなよナ」と
ウインクをしたとステージ間近の前席の人達の話です それほど本当に生き生きとした広がりの有る歌唱力でした
 
 金賞は スリー・ディグリーズの「天使のささやき」 これは日本から火がつき世界に大ヒットした初めてのケースで 東京音楽祭の名を早くも世界的なものにしました 新人さんでしたが 良くハーモニックスした軽快さを前面に出して居たのが 世界を制覇する結果を生んだものと言えましょう
 
 銀賞は布施 明さんと ザ・ピーナッツさん 銅賞は五木 ひろしさんと健闘しました
布施 明さんは3回通しての出演で 今回は「積木の部屋」での受賞でした 氏の熱唱は会場の人々 テレビを見ている方々の記憶に大きく残ったことと思います
 
 ゲストのシャーリー・バッシーの熱演は素晴らしく 「これぞ歌い手」 と 聞く人々を
納得させる 説得力あるパワー一杯の熱演で 拍手鳴り止まず でした
  余談ですが来日中に一度だけシャリー・バッシーのディナー・ショーがあり 招待を受け聴きに行きましたが これも実に素晴らしいの一語に尽きるものでした アメリカの名歌手揃いの中で生きて行くのは大変な事です 一回一回を完全燃焼して自己を表現をするシャーリー・バッシーに私は大拍手を贈ったものです
 
 この第3回は ルネ・シマールのすがすがしい歌声 スリー・ディグリーズの艶やかさ 渋い味と貫禄のフランク・シナトラの登場 ゲスト シャーリー・バッシーの熱唱と かなりステージが盛り上がり 満席の観客も堪能した様子のフェスティバルでした
 
  この回頃だと思うのですが ソビエトロシアから初参加していたのですが 記録から
全く外れて居ますので 触れて置きましょう
 歌手は バリトン 実によく響く声クラシック・ベルカントの発声です 40歳ぐらいだったでしょうか 一緒に彼のアレンジをしたのでしょう 60才ぐらいの学者タイプの同行者が居ます 彼が指揮をしたいと言っているが良いかとの事でしたので 私はこの世界大会は希望する人には喜んで指揮台に立ってもらって居ると答えました
 
 二人の音合わせが始まりました  まだ歌詞で二番に入る前なのに 突然二人が怒鳴り始めました 時間と共に二人は熱くなり顔と顔を擦り付ける様にして怒鳴り合いが続いています 通訳を通してなんとかその場を収めたましたが ロシアは未だ思想的国際的に冷戦状態最中での音楽祭への出演です 当時の認識では ロシアと言う国は国家にマイナスな事が有る人間はシベリアという極寒地に送られる と言う話が常識で これは何とかしないとまずいと 二人をなだめる様に怒りを抑えさせました
  音楽的に どこが二人の問題点かもはっきりせず ただただ なだめるのみでしたが
それこそ国に帰って「シベリア送り」になったら気の毒と 皆でなんとかその場を収めようとしたのです  長時間説得の結果 日・ソ間の国際問題にも成りかねないと TBS預かりとなりました
 
 音楽祭での現場としても始めての体験でした この第3回か次の第4回だった事は間違い有りませんが 残念なのは本番での記憶が私には無く 或いは出場しなかったのかも知れません (次回までに 各方面に問い合わせをしてみます) 
 
 
 第3回東京音楽祭世界大会は 立派な音楽祭に成長しました 日本国内だけでなく世界にその名を広げ前半での一つの大きな 頂点を就けたと言えるでしょう
 各セクションの完璧さは TBSの実力を物語るものとして 各方面から讃美の声が多く聞かれました
 
 勿論 我がオケ軍団は歌手を裏から支え 歌い 舞うように歌を盛り立てました 私はオケの皆さんの 限界までの演奏を 心から感謝して居たものです
 何よりなのは来日諸氏から我が軍団私へのクレームが全く無い事です やはり徹底したプロ意識の 心からの音楽は 世界共通心に響いてくれたのでしょう 
 
  この第3回から司会は 土井 まさるさんに決まりました 出待ちの控え室で二人
の御付き合いが これから10年近く続くわけです
  
 この回からシルバーカナりー賞(新人賞)が制定され新人にも 世界大会への門が開かれました この回は麻生よう子さん そして日本代表(国内大会でのグランプリ)のゴールデンカナリー賞は布施 明さんでした 年々狭き門になりましたが 歌手の世界大会への希望は多く 書類テープ審査 予選審査 本選国内大会を目指して激戦がくり広げられ そして 世界大会への出場権を手に入れるのですから歌手の皆さんが大いに競い会ったのは 立派な 立派な姿だと高く評価されたものす
 

◆2006.5.13 レコード大賞音合わせで不思議なこと 2
時 : 20数年前 12月30日  夜11時頃  レコード大賞音合わせ当日
所 : 赤坂TBS 旧館TV局舎 1階 別館への廊下
 
 今回は もう時効ですので 初めての体験を記して見ましょう
 
 12月30日はレコ大の音合わせです オケとの確認そして歌手の方々との確認です 歌手は皆光り輝いて居て笑顔が 実にいいのです 毎年思った事ですが 確かに光り輝いているのです 輝きは一人一人違うのですが この寒い12月末なのにみな 湯上がりのように見え それぞれの輝きを放っているのは 本当に不思議でした
レコード大賞音合わせ風景
  
 レコ大の24回か25回目の音合わせでしたが この時はTBS別館スタジオで行われました  私は TV局舎のA駐車場に車を置き TV玄関を入り左側の廊下を通り 旧メインのAスタBスタジオ前より右に階段を10段ほど昇り 左へ衣装部さんの前を通り 鉄塔下の外に出て少々歩き別館の音合わせのスタジオに入りました  この間A駐車場より10分は掛かったでしょうか
実は別館はB駐車場が近く このB駐車場に置かなかった事から私のミスは始まっていました
 
 TBSの建物は確か戦時中は陸軍麻布三連隊の跡地に建てられて居るとは聞いていました 又 夜間警備の人たちの話では旧ABスタジオあたりで軍服の人影をよく見たといい 或る警備員はそれによりノイローゼになり またこれが原因で何人かが転職したとの噂もあり TBSの方々の間では皆さん「ああ あの話」と語り草になっていました
私もその話はかなり前から聞いていて A,Bスタジオでの録音の時などは 余り良い気持では無かった事を覚えています
 
 音合わせも無事終わり明日31日の本番を待つのみです
いつも音合わせには誰か付き人が 必ずと言えるほど私に付いていて居たのですが この時だけは 私一人でした 裏は毛皮つきのトレンチコート 手は厚手の革手袋と防寒対策は万全です その上コートのポケットに手をつっ込み指を温めていました
 
 TV局も12月30日です 殆ど人影は有りません 私は先に書いた道のりの逆に駐車場に向かいました 別館から外に出てTV局舎に入りました だれ一人とも会いません
シーンと静まりかえったTV局舎です 局舎に入り衣装さんの部屋の前を通るべく3段の階段を2段下りた其の時でした 局舎に入った瞬間から何か異様なものを感じていたのですが まさかです
 
 両足のすねを サッとすくわれたのです 両足ですから前に倒れる以外方法は有りません その倒れる瞬間の1,2秒の間にポケットから両手を出し前に伸ばせました
 両ひざは揃えたまま 手はひじから前に伸ばし どすんと落ち廊下に腹ばいになりました もしあの瞬間に両手をポケットから出して 前に伸ばす事が出来なければ顔面を
強打していた筈です しかし前のめりに倒れる瞬間にフワッと体を下から支えてくれる感触をも同時に感じたのです
 
 明日は朝7時から立ちっ放しです 私は両ひじ 両ひざ 両手 どこか怪我をしなかったか慌てて調べました
 少しずつ ゆっくりと立ち上がり 静かに足踏みし両手を動かしました
 手は手袋の為か傷もなく 両肘 両ひざも痛みは有りません 私は静かにゆっくりと
駐車場にたどり着き アイドリングの間 確認するように体を動かし運転出来ると判断してゆっくり運転で帰途につきました 車中では悪い事のみを思うものです もし明日起きてひざ ひじに痛みが有った時はどうするか あとは明日を待つのみです
 
 31日朝 本当に幸せな事に昨夜の事が 嘘 の様にどこも痛みも感じませんし どこにも擦り傷ひとつありません   そして無事にレコ大を努める事が出来ました
 
 私の両すねを払ったのは 何だったのでしょうか 未だに回答は出ていませんが あの静かな状況の中 明日を控えて私は細心の注意をして居たのにもかかわらず 起きた事実です その場所は噂の一角です 何かが私のスキを突いて両すねを払ったとしか言い様が有りません 年が明けてから私は何回も現場を確認に行きました 絶対と言える程 前のめりに倒れる条件は見当たりませんでした
 
 倒れる瞬間の1,2秒の間にポケットから両手を出し前に延ばせた事 また下からそっと支えてくれた感触も何だったのでしょうか 頭から前のめりに倒れてカスリ傷ひとつ無いのです
 私の体験の数々からして 私をお守り下さる 神仏 がそっと支えてお守り頂きレコ大を無事に乗り越えさせて頂けたと思って今も感謝感謝の心で居ます
 
 今は TBS社屋も建て替えて 問題の現場は何処へ行ったのか分からなくなりました 私の すね を払った何者かは 建て替えと共に此処に居てはいけないと悟り 大宇宙の何処かに正しく帰って行ったと 信じたい思いなのです
 

◆2006.5.8 不思議なこと 1
 今回は 気分を変えて自分でも答えの出ない体験とでも言いましょうか 常識では考えられない摩訶不思議な出来事を少々書いてみます
 
 10代から色々な現象を体験していた私ですが 未だ皆さんのご記憶にある方の事から記してみましょう 
 昭和35、6年頃だったと思いますが 当時NET今のテレビ朝日の木島則夫モーニング・ショーで今週の歌 今月の歌を書いていた時代がありプロデューサーのH氏の紹介でやはり私と同じく歌を書いていた 和泉国康氏を知りました H氏と二人よく私のところへ雑談に来ては 音楽談義で盛りあがったものです
 
自分と闘い 世間と闘った和泉さんの著書
 和泉国康氏は一世風靡の大スター 『天中殺』の和泉宗章氏の事です
 
 和泉さんは良い曲を書く作曲家でしたが一方で熱狂的な競馬好きでした 
 私は未だに競馬は一度だけしか経験したことがなく 競馬に関しては全くの無知です (この一度だけの競馬にも不思議な体験をして居り稿を改めて記します) 和泉さんとの雑談から「あした競馬に行き大勝する」との話になりました 作曲家同士の気安さから 明日を見て欲しいと言う和泉さんの言葉に それではと四柱推命の要約本その他を取り出し軽率にも気軽に明日の和泉さんの運勢を調べる為に 前に調べていた氏の資料を引っ張り出しました 四柱推命は10代から父に学びフトした時に参考にしていたのですが決して軽々しくこれを頼ったり 使ってはいけないとの厳しい厳しい父の教えを このときはすっかり忘れていたのです 
  
 和泉さんの明日の勝負の結論を方程式に従い出してみました 和泉さんは納得顔でしたが私には 何故かその数字以外に常識では考えられない 違う数字が浮いて見えるのです 和泉さんには 『気をつける番号』 として 浮いて見えるその 違う数字 を言いました
この経緯は 和泉宗章書 『占い告発』 の冒頭にご本人が細かく書かれていますので ご参照ください  (氏はサインを入れて本を出版のたびに送ってくれていました)
 
 次の週の金曜から毎週和泉さんは時間に関係なく私に合わせて深夜でも現れる様になりました
 
 結論から書きますと私の伝える気を付ける数字が 間違えなく「当たる」 と言うのです これを体験した和泉さんは 四柱推命を専門家に付き学び始めた様です 様ですと書きましたのは和泉さんは 全く私の前そして音楽界から姿を消したのです
 
 そしてあの大ブームをまき起こした 『天中殺入門』 です 彼の出す本は何百万部もの大ベストセラーが続きました 一時期 世の中は 天中殺 で持ちきりでした
 
 何冊目かの出版記念祝いが帝国ホテルで開かれ私も招待されました
 友人の晴れ姿を見るのは 本当に嬉しいものです私は心からお祝いをしました
 この晴れの日までの彼の勉強はすさまじいものだったでしょう 中国4千年の歴史に
基づく統計学とも言われる学問です その中から『天中殺』を見出した和泉さんの勉学は不眠不休だったと思います その後の彼はテレビ出演 講演 雑誌と大スターでした 
 そして 日本テレビのイレブンPM大橋巨泉氏との年始対談で 野球の巨人軍のその年の優勝は無い 確か長嶋監督は辞めると断言し 彼は当たらなければ『天中殺』の和泉宗章を廃業すると明言したと記憶してます
 さあ世の中は一年中 巨人の勝率で話は持ちきりで 巨泉さんと和泉さんのお陰で視聴率はかなり高く その加熱ぶりは野球ファンも加わり大変なものでした  和泉さんは自分の学んだものを信じて 自信を持っての言葉だったのでしよう
 
 その年巨人長嶋問題は和泉さんの予言に反しました 和泉さんは男らしく 和泉宗章を廃業しました 実に劇的な氏の半生だったと思います 
 自分が学び 自分で得た回答で自らを裁いた氏に 私は本当に敬意を持っています しかし反面 氏の本にも有りますが私が生かじりの本職では無い世界の事(実は大変な事を)から和泉さんの人生を変えるきっかけを作ってしまった事を 本当に申し訳ないと 今でも思って居るのです
 
 その後 氏は師匠とのトラブルが原因と記憶してますが 今までとは全く反対の 占いを告発する側に立ち 『占い告発』 と言う本を出しました これも私には氏の心の内が 理解出来ました 氏は 表と 裏 を自分自身の体験から書いていたのだと思います 自分に忠実な和泉さんだと私は思い高く評価していました
 
 テレビ騒動の後 私の仕事先に氏が突然訪れて「あれは 何だったのですか」と私に質問しました あれは とは昔の 「当たり」 の数字の根拠です 私は正直に 浮かんだ数を言ったのです と昔と同じく 『気を付ける番号』 だと答えました 氏は ああ、やはりと納得の様子でした これが氏との最後でした 氏は今までの勉強の中で常識では 有り得ない事があり得る事 方程式外も有り得る事を学んで来たと私は直感しました これからの氏は大成するなと思ったものです  
 しばらくして音楽仲間から氏がお亡くなりになられていた事を知らされました 未だ道半ばこれからが氏の体験を活かしての真の道を開かれたのではと本当に残念な思いでした
 ここであらためて氏のご冥福を心からお祈り申し上げます
 
 人間界には 0123456789の数字以外存在しません しかしこの数字では形容出来ない事柄があったとしても この大宇宙の中の私達人間界では不思議では無いと言えないでしょうか 常識では考えられないこと 有り得ない事が あり得る と私は思っています
 
 私は 神仏を敬い 父母の慈愛に感謝し 人々から頂く御恩をそして大自然に心から感謝の心で毎日を過ごす様に努力に努力を重ねる居る毎日です これは人間界では至極当然のことでしょうが 私には当然の事がとてもとても大変難しく 感謝を忘れる自分を強く強く戒める戒める毎日でもあります これは本当に本当の事です
 
 この人間界で人間が本来持ち合わせていた原始的な野生の部分が 時として呼び起こされたとしても いささかも不思議ではないと私は思います また常識では摩訶不思議な事柄や方程式外の事柄が有ってもいささかも 不思議 ではないと私は今でも思うのです
 

◆2006.4.26 第2回東京音楽祭世界大会
 この季節になると 東京音楽祭世界大会がやってきていました
第2回世界大会は昭和48年4月29日帝劇で行われ 記録には残されていませんが司会は大橋巨泉氏でした レコ大と同じ 出待ち の部屋で私と巨泉さん二人大いに
雑談で盛り上がり また出入りする演出の人々とも明るい雰囲気でした
  
 ところで来日のアーチストの側から見ますと 日本と言う国は そしてどんな人たちなのか オーケストラは大丈夫か その他 不安の塊で来日するわけです
 来日してホテルに入ると 私達の面接が待っています 始めは不審な面持ちで始まりますが 譜面のチェツク 希望する事など等話を詰めて行くに従って 態度もほぐれ笑顔を見せてくるのがほとんどでした この様にして一組一組かなりの時間を掛けての面接です 音声さんからはスタンドマイクかハンドマイクか 照明さんからは衣装について 等々の質問を受けて 一応安心して面接から帰ります
 持参の譜面ですがアメリカからのエントリーは大体良いのですが 中には全く不備の
譜面もかなり有りましたが エントリー側には言わずこちらで書き足しをした作品も多く
結果的には 感謝されたものでした
 
第2回東京音楽祭世界大会
 
第1回の経験を生かしての世界大会 
大いに観客をわかせ大成功でした
 そして音合わせ当日 我がオケ軍団の音を聞いてエントリーの全員はじめ来日の人々は本当の安心感を持った様に見えました
 この裏側のご苦労は大変なものなのです 海を越えて何回ものやり取り 確認の上の確認 プロデューサーの渡辺正文氏 そして細部 細部にわたり世界中の音楽業界と渡り合い 常に前面には出ることを控えていた鎗居秀禎氏の 一年を掛けての成果なのです 前日に行われた音合わせも第一回の経験から一人の持ち時間15分〜20分で終了する事を参加者も認識していて TBS・Gスタジオも明るく 何一つクレームも無く友好的でした   いよいよ当日を迎えました
 
 ゲストにジョルジュ・ムスタキの渋い味 ゲストのジャクソン・ファイブの新鮮さ少年たちの印象で 第2回のこのとき少年のマイケル・ジャクソンが世界的な歌手に成長するとは想像出来ませんでした 又 安定した人気のポール・ウイリアムス 日本からは尾崎紀世彦氏他計5名の健闘も素晴らしいものでした
 何よりの話題はサミー・ディブスJr.がこのフェステェバルの特別ゲストとして来日
した事でしょう 
 サミーの登場方法で演出サイドとかなりのやり取りの結果 結局客席うしろのドアから4,5名のボデイガードに囲まれての登場になりました 確かにあの方法はボデイガードになれない帝劇の観客の意表を突いたものではありました
 
 オリビア・ニュートンジョンもエントリーしていたのですが賞は取れずでしたが同席のポール・ウイリアムスに認められ これがアメリカでデビュー大人気歌手になるきっかけになったのは特筆ものでしょう
 
 第2回の大賞はミッキー・ニューベリーの『祈りの詩』ギターの弾き語りでしっとりとした素朴な大変好感の持てる歌唱で同じステージ上の私も素朴で有ることの深い深い味わいを体験しました  世界大会と言う大きなステージにはやや地味な感も有りましたが 私はこの大賞には審査員の率直な心を感じました
 
 ここで私の見たミッキーの微笑ましい姿を紹介しましょう 本番開始30分ほど前 我が演奏家軍団がそろそろステージに集まって来るのを横目にしながら下手のピアノ前にギターを持って座りピアノの単音を鳴らしてはギターの一弦、一弦をチューニング(調弦)を始めたのです 通常ギターの調弦は一音(A音)のみで全部の弦の音を創り上げるのですが 彼はまるで初心者のように一弦一弦の音を丁寧にピアノ音に合わせて音程を作り上げていました これは本当に微笑ましいミッキーの本番前の姿で大いに好感の持てるものでした
 
 世界各国からの参加者も 受け入れ側のTBSも前年に比べ全てが順調に進み これが第1回の体験から得たものとしては 大きな大きな前進だったと記憶しています 演出、カメラ、照明,美術、音声、各セクションもそして 我がオケ軍団も充実した演奏で来日のアーチスト諸氏や音楽祭ファンに満足して頂けた第2回世界大会だったと思います
 
 今思い返しますと 良くあのような全てに豪華絢爛なステージ公演が出来たものと思います 世界的にも大スターが揃っていたのも時期を得た要因でしょうし それを呼ぶ事ができたTBSの手腕と 世界的に東京音楽祭を認知させたのは現場の各セクションの努力と完成度の高さでしょう 次の第3回からは世界中からエントリーしたいと言う要望が多く寄せられました 戦後の音楽界を飾る歴史としても 現場にいた私は何とか記録して置く義務感のようなものを感じています TVの画面に出ないシーンの記憶を呼び戻し記して行きたいと思っています
 
この大イベントを創り上げたTBSの諏訪 博社長(のちに会長) プロデューサーの渡辺正文氏 すでに世を去られ 第1回から全てをプロデュースされ 近年TBS関連会社の社長をして居られた鎗居秀禎氏も今年2月にご逝去なされました 鎗居氏は世界中の音楽業界を相手に敏腕を振るわれ常に前面には出ずに音楽祭に大きな情熱で立ち向かい半生を捧げた方でした  氏との切れの良い会話が出来なくなったことは誠に寂しい限りです
 
 偉大な業績を残された方々に 心から 心から感謝の心を捧げ 御冥福をお祈り申し上げます
 

◆2006.4.23 レコード大賞 高橋圭三先生 現場より 2
珍しいスナップです センターより登場の圭三先生です
( BBSでご指摘を頂き第26回レコード大賞で大賞発表者としてセンターより登場の圭三先生です)
 12月31日は朝7時からカメラリハーサルの連続です NHK紅白とのからみで台本順ではなく紅白との合理的な手順で進行されます
 ランスルーを兼ねたカメリハが終了するのは夕方毎回5時ごろでした
 本番前のほっと出来るひと時です 私が控え室のー出待ちーに戻ると 毎回同じ事でしたが 圭三先生は又「ご苦労様 ご苦労さま」と迎えてくれるのです この一言が私には大きく響き 朝からの緊張をときほぐして下さり感謝 感謝の思いでした
  
 これからの時間が先生 私の食事 着替え 私は本番前の頭の中での確認 確認です
 少々私ごとですが この記憶の悪い私ですが 何故か本番当日の進行を全て記憶しているのです 本当に細かい処まで当日は記憶しているのですが本番が終わり帰りの車の中に置いて来るのでしょうか 大きな印象的なこと以外はほとんど頭の中から消えて次の仕事に向いているのです しかし当日は細部細部まで的確な記憶でした
 
 本番前のホット一息 この感覚は筆舌に尽くせません おそらく出場歌手の皆さんも
TBS側の各セクションの方々も同じ思いだったと思います 取りあえずは食事です
 
 さて圭三先生とのお弁当談義ですが 私は生放送当日は局からご用意くださるお弁当を信用しないわけではないのですが 自分の体調もある事ですしお弁当がどんなに豪華なものでも生ものは一切取らず 火の通ったものだけを少々と香のものでご飯半分のみを頂いていました もし腹痛を起こしたら・・・代理のひとは居ません お陰様で何十年と無事に 香の物とご飯のみで大イベントを乗り越えて来ました
 これに気付いた圭三先生は 「実は私も昔から同じなんですよ 生放送に穴はあけられませんからね」と  すでにお弁当一つにしても大先輩でした
 
 ところで圭三先生と一緒に食事をした覚えが無いのです 15年も御一緒の楽屋ですので 一度でも二人で食事すれば何らかの会話の一つぐらいは覚えているはずなのですが全く有りません いつも私一人の食事でした  これは2,3年目に気付いたのですが 圭三先生は大体当日は午後1時頃の入り時間でしたのでお昼は済まされていたのでしょう しかし問題は夕飯です どこかでお弁当の時間を取っていらしたに違い有りません とすると私達オケ軍団全ての軍団が休憩に入る前に食事を済まされているわけです これは実に先生の仕事の計算の中に入って居たと私は思うのです
5時過ぎ6時近くの食事と 5時前に済まされて居るのでは大きな違いです
 
31日本番前のカメリハ風景
この頃には FL2、OB1弦8,6,4,4ハープ、混声4部合唱とジャズフルオーケストラでの演奏と充実したものに成ったと思います
これも御指摘いただき昭和46年です
 食後2時間以上経過している消化状態と 食後1時間では食事感の影響は全く違うのです 私は食事感の残ったまま仕事に入るのを避ける為にご飯も半分程度にしていました 先生は4時台に既に済まされ 食事感も無い状態で本番に入られていたのだと思います この推察は的確だと思います 今は電話をして先生に伺う事は出来ませんが 食事一つにしても仕事の為の食事をなさっていらした先生らしい事実の一つと言えるでしょう
 
 そろそろ着替えです この着替えが本番への序奏なのです圭三先生も同じ思いでいらした事は間違い有りません この食事 着替えの間にも演出諸氏と圭三先生のやりとりが必ずと言えるほど有りました  確認 確認です 毎年演出者が変わるのですが 先生は新演出者を温かく包み込む様に応対してあげていました
 
 着替えですが先生も私もそれぞれの助手さんの手を借りての着替えです
 着替えが進むにつれ私は気持の上では本番ステージの上に居る心境に気持を高めます 先生も同じ御様子でした 先生は靴を履き終え姿見前でタキシードの胸元をキッと締めます それは いざ出陣の武将を思わせるものでした
 
 圭三先生は永年放送界で多くの仕事で大スターでしたが このレコード大賞が先生の人生のピーク最高の頂点だったのではないでしょうか 圭三先生自身が −この番組は私番組− の意識 意欲を強く強くお持ちの様に私には感じて居りました
事実 先生自身の言動 行動は自信に満ち溢れていました 司会席のお立ち台に立ったあの自信にみちた微笑みの姿 そして心のこもったナレーションは絶品の
圭三節と言はれて居ましたが それは人々の心の中にしみわたり 品位ある格式の高い『日本レコード大賞』を創り上げていたと現場に居た私は感じていました
 
 圭三先生に付いては今後色々と記して行く中で私の気付いた事柄をその回により想い出を書いてゆきたいと思って居ります
 
 平成14年4月22日早朝 私の敬愛する恩人の方より電話が有り 「圭三先生が昨夜お亡くなりになりました マスコミには 9時に流れる事になっています」 との連絡を頂きました
  
平成14年4月21日 巨星 逝く 行年83歳 
 
戦後の日本を放送を通じて安らぎと希望を与え偉大な業績を残して逝かれた 高橋圭三先生 ただただ 心からご冥福をお祈り申し上げます      
 
私の伺った先生よりの最後のお言葉
 
     「いやーお互いに 良い時期を過ごしました」
 
    11年前の初秋  赤坂のホテルでお会いした時のお言葉です
  

◆2006.4.21 レコード大賞 高橋圭三先生 現場より 1

高橋圭三先生

TBSの年末を飾る大イベント
 輝く日本レコード大賞の先生
 人々で賑わう盛大な業界人のパーティーも半ばを過ぎた頃 人を掻き分けかきわけゆっくりと私にの処に来る人が居ます あの圭三プロの名マネージャーKさんです気が付くと後ろに圭三先生ですKさんは先生の先導をして私の処に来て下さったのです 宴半ばでお帰りになる御様子でした 先生は満面笑みを浮かべ両手を差し出し私の両手を強く握りしめ 
 
「いやーお互いに 良い時期をすごしました」
 
 あの圭三先生独特の力強いお言葉です  先生と私の間では この一言で 充分すぎる程の男同士の思いが込められていたのです
平成7年初秋 赤坂のホテルで先生との出会いでした
 

 高橋圭三先生といえばNHK時代より多くの番組で視聴者を楽しませ 一時期は国会議員として国政にも加わり 大スターの司会者である事は皆さんご承知の通りです
 
 高橋圭三先生と私とはレコード大賞で TBSテレビ第11回帝劇公演から親しくご交際を頂くようになりました  私も若い頃よりNHKで仕事をさせて頂いて居りましたが 私は教養部 国際局の海外放送の仕事でしたので当然先生との接点は無く 先生はNHKで雲上人の存在でしたのでレコ大で御一緒できるのは大変光栄な事でした
 
 帝劇の楽屋では先生と私二人でひと部屋が きままりでした
ここで先生と私が過ごした帝劇の当時の楽屋の中をご説明いたしましょう
ステージと同階の 出待ちの部屋で 応接セットと補助セット 着替え所二箇所
奥に長テーブルと椅子 (このテーブルは演出のP,Dさん,達の打ち合わせ 変更等などで占領される事度々でした) かなり大きなゆったりとくつろげる部屋でした
 
 12月31日オーケストラのサウンドチェツクは朝7時です 私は7時30分入りでしたが必ず7時前には楽屋入りをしていました
NHK紅白の出演関係もありカメリハが順調に進められ午前の部も終わり中休みです  楽屋に戻りますと 圭三先生は台本チェツクをして居られました ご挨拶をして雑談この雑談も今日の新聞記事等などで今日のレコ大問題にはお互いに全く触れないのが暗黙の約束事でした これは先生がレコ大を終えるまでつずいたのです 先生が喜ばれたのは私の知るNHKの名物D,Pの話で誰々氏も定年ではもう知っているも少なくなりましたよと少々寂しそうな話もありました
 
 圭三先生が台本を手にしているのを見るのはこの時だけで ステージに上がられてからは全てを暗記されているのでしょう 流れるような圭三ぶしです 圭三先生司会の2年目になりますとカメリハの中の曲と曲の合い間に少々の直し(照明、カメラ等)時間が有ります  先生はこの直しのわずかな時間をも実に有効にお使いになりました
帝劇入りをされた圭三先生は司会席からゆっくりオケの前を通り 『いやーご苦労様 ご苦労様』と私に声を掛けられ{勿論ステージ上の皆さんにも聞こえます) 舞台中央の指揮台近くまで来られるのが常になりました
 
 これは先生独特の仕事の一旦でステージに現れることで会場の各セクションに「会場入りをしていますよ」の  何よりの証になる訳です  そしてお立ち台司会席に戻られ
全体の進行を静かに見守っていました
 
 私は先生がステージで台本を持った姿を見た事が有りません 先生独特の記憶方法と お一人でリサーチを含めてかなりの作業をなさって居たのは間違いないでしょう その膨大な事柄が全て頭に入っているからこそ あの余裕のあるそして自信に満ちた圭三先生の姿だったとのでしよう
 
 ランスルーは各セクション最後の通し稽古 圭三先生は淡々とご自分のペースで進行させながら会場全体に目配り心配りをされて居るのが私には良く分かりました
そして生放送での格調と品位に満ちた司会 人々の心を感動させるナレーションは実に素晴らしいものでした 今も脳裏にやきついている方々も多い事と思います
 
 今日4月21日は先生の御命日です 心から 心から御冥福をお祈り申し上げます
 
ランスルー終了後 先生の本番前の休憩 夕飯 着替えなど次回の2に譲ります
 
   

◆2006.4.16  レコード大賞Pの野中ご夫妻が来宅されました
  
 野中杉二氏は初期からのレコード大賞のプロデューサーで TBS歌謡曲ベストテンを始めとして テレビ創世記にはまだまだドラマ番組に溝を開けられていたTBSの音楽番組を どの番組にも引けをとらない堂々たるいちジャンルとして育て上げた功労者です
 
オールスター大行進  日劇より
 
 毎年年末に歌謡界総出演で行はれていたTBSの大イベントで大変な熱気に包まれていました
 
 

 
 有楽町の毎日新聞ビルにラジオ東京(のちのTBS)が有りました 私と野中さんとの出会いはこのラジオ東京でした 当時私はNHKの教養部、国際局の海外放送で仕事をして居ました 野中さんとは昭和27,8年頃にお会いしている筈です  私はラジオ東京でもミュージカル 「薔薇よいつまでも」 三元中継ドラマ 「蜘蛛の糸」等々局側の全編音楽という意欲的な作品を書かせて頂いておりました 民放のスタート時期で 報道部総員で制作の三元中継ナマ放送の 「土曜パトロール」 など挑戦的とも言える全員初体験の番組なども経験しました 当時は放送界各局が戦後の復興と共に昇り坂を駆け昇る勢いでした
 初期にはラジオ東京管弦楽団も有り 初代音楽部長武川寛海先生(タケカワユキヒデ氏の父上)が情熱を注いで陣頭指揮をとっていたものです
 
  
オールスター大行進  歌舞伎座より
 
歌舞伎座にオーケストラ・ボックスを作り
上げています 上方には花道が見えます
 
 
 
 野中さんとの初仕事は12月末放送の「オールスター大行進」だったと思います 帝劇 日劇 歌舞伎座 と毎年劇場が変るのも興味深く この日には歌謡界総出演の大変贅沢な番組でした すでに野中さんの頭の中では「NHK紅白歌合戦」前に歌手総出演という構図が出来上がっていたのでしょう プロデューサーとして意欲的な情熱に燃えたぎって居られた姿を思い出します 
  
 ほどなくTBS・野中さん達がレコード大賞を取り上げました 初期のレコ大は未だマイナー番組 平日午後東京ローカルのみでの放送で 「オールスター大行進」は例年通りの放送をしていました
やがて機が熟し いよいよTBS・野中さん達の張っていた蜘蛛の巣に飛び込むように「日本レコード大賞」黄金期が到来するのです 放送業界 音楽業界をゆるがす大きなイベントの時代を迎えたわけです
 
 また同時期 音楽業界ではランキング反対の問題でも大論戦が交わされていましたが 野中さん達はとうとうそれを押し切り 歌謡ランキング番組「TBS歌謡曲ベストテン」を世に送り出しました 当時は大きな第一歩と騒がれたもので これが後の「ザ・ベストテン」に繋がるわけです 
TBS歌謡曲ベストテン
 
日本初のベストテン番組が誕生しました      私は音楽の内容を充実させるためにこの頃すでに弦を今までの2倍の6,4,2,2、ハープも登場させより音楽的な音創りを徐々に始めました      
 
 野中さんはTBSの組織の一員です 良い企画放送界の向上を願っての作業一つにしろ会社の了解をとり付けての行動ですからそれはそれは大変な日々だったことは想像に難くありません 当時放送音楽に携わる私達作曲家も連日の徹夜は当たり前 それを演奏するスタジオ演奏家も深夜 そして朝までの演奏とかなりの厳しいスケジュールを乗り越え乗り越えての積み重ねです 各部門全員が情熱をかけ珠玉の作品=番組を完成させた時には共に喜び合ったものでした
  
 一度だけの人生 テレビ音楽という消えゆくものへの情熱と意欲は 今思い出しても すがすがしい想い出として私にも残っています
  
 もう時効ですので表に出せなかった事を記してみましょう
戦後 労働組合が活発な活動を始めていた当時 TBS社員の野中さんはP(プロデュューサー)、D(ディレクター)として現場には最も必要な人物として活躍していました やがて組合活動は過激化して指名ストライキをかけ始めました
TBS歌謡曲ベストテン
 
 この頃はスタジオVTRが多く演奏家も外に出ると朝と言う事が多かったものですが番組を創る事への参加の意識が強く熱い情熱に溢れていました

 野中さんは真っ先に指名ストを受けたものの番組制作には欠かせない存在です 当時は仕事に入ると時間などは関係なくなりますので 私もスタジオを出たら朝を迎えていたということも度々でした 当然野中さんもスタジオに詰めています これはスト破りです しかし組合の非難のなか野中さんは番組を作り続けました スト破り常習のP、Dだったのです ストなどに付き合っていたら番組などとても仕上がらないという鬼気迫る修羅場だったことを思えばいたしかたなかったでしょう
 また当時はプロダクション問題 音楽事業者 関連諸団体との出演交渉等々は壮絶な時代でした
  
 この状況下での野中さんの強さは いつも胸のポケットにある『辞表』から来ていたようです また業界内の諸問題の中 体にさらしを巻いて危険に対応していたということですから奥様もさぞ大変な思いをされたと思います 家に帰るのは連日深夜続き 戦後日本のテレビ黎明期は 野中さんの様に体を張った方々が育て上げたと言えるでしょう この時期の放送に携わる人々は 誇張でなくあらゆる部門の方々が自分を無にして 命をかけ体を張っての仕事をしていました
  
 
 野中さんは御自分で業績を語る方では有りません このお人柄は今でも全く昔と変わらずですので 私があえて氏の(氏ではなく野中さんと呼ばせて頂きました)戦後日本の音楽界に捧げた半生を直線的に超特急で書かせて頂いた次第です
  
 野中さんは今も新編成4月・9月のテレビ各局全ての新番組をVTR撮りして分析をしているとの事 プロデューサー魂はいささかも衰えていません