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◆◆エッセイ 6◆◆    

◆2006.10.02  23、4歳になりました
 キングレコードでの1年と少々は 私に新しい社会 世界を見せてくれました
 数十名の詩 曲 売り込みの人々は 1ヶ月3ヶ月半年1年を過ぎ7、8名だけが残りました 私は紹介者への恩義を無にする事だけはしたくないと ぐっと奥歯を噛みしめていたものです 歌謡曲の難しさ それは私が体験する始めての 大きな試練でした
 
 私がNHKで仕事をしている事や 歌曲 ピアノ曲等など作品を発表している事などはここ キングでは全く通用しません 全くジャンルが違います 歌謡曲では町尻部長 和田さんキングが認めるもの のみが歌謡曲として世に出て行きます やっと終戦の名残りも薄く感じさせる頃でしたが ここに集まる人々の目はギラギラと異様に光り 作品の売り込みに懸命でした
 
 そんなある日 和田さんはキングの大御所詩人の詩を私に渡し 来週来る様にとの事でした
 さて次週 町尻部長も同席で この大御所作詞家の詩への附曲はOKが出て今月中にレコーディングするので オケ編成を用意する様にとの事です
 
 私の初レコーディングはキングレコードでした このレコードのうしろには紹介者 そして町尻部長(後の社長・会長 レコード協会会長)と和田さんの厳しい目と耳が私を育ててくれたという事実があったのです
 本当に有りがたいことです あの大勢の作品売り込み作家志望者達の情熱には大い啓発され ますます奮い立つ思いでした
(今 当時をご存知なのは あの江口 浩司先生ぐらいでしょうか)
 
 キングに伺うようになり 私の生活そして精神は 新しいものへの挑戦で一杯になりました キングに伺うようになって半年ほどした頃だと思いますが 私はオリガ・サファイア先生に事情を話し 来月で止めさせて欲しい旨を申し上げ 快く承諾をして頂きました 御主人とも親しくなったものの 今一歩踏み込んだ話を伺いたかったのですが(御主人は終戦間際モスクワに外務省高官として何回も飛び交渉に当たった人だと まわりでは噂されていした)残念でしたが オリガ先生御夫妻とお会い出来 勉強させて頂けたのは幸運なことでした
 
 キングの恩義を頂いているこの時期に 私は東芝レコードから専属契約の話を頂きました 東芝は始まったばかりの会社 若い私には魅力です 迷いに 迷い キングの恩義に悩みました 私はお二人に正直に有りのままの東芝の話を申し上げる事にしました
 
 話を聞いていた町尻先生は 机の引出しを開け書類を取り出しました 
 契約書です 私の前に置かれたのは 『準専属契約書』だったと思います 
 「これを用意していたんだけどね」と やさしいお声です 
 「まあー考えて連絡しなさい」 と考える時間を下さいました
 
 私は音楽を行う人間として始めて自分との対峙を迫られました ご恩 恩義に生きるのは当然のことです しかし 片方では私の求める音楽全ての仕事をさせてくれるのです 具体的には 東芝では シャンソン カンツォーネ 教育レコード(これは範囲が広く「オーケストラ入門」始め 「名曲シリーズ」等など) そして歌謡曲も書く 
 しかしキングでは歌謡曲の作曲のみの生活が 何年かは続くはずです 御恩か音楽か 悩みに悩みました
 
 そして決断の日を迎えました 若い私にはあらゆるジャンルの音楽を書ける東芝で自分の音楽の幅を広げたかったのです ただその希望だけでした 恩義を無にして 音楽を取る自分に大きな嫌悪感を感じるのですが 音楽の目標は失いたくないのです 若い私はあらゆる音楽に触れたかったのです
 町尻先生と和田さんに 「どうか御許し下さい 東芝に行かせて下さい」と心のうちを
申し上げ 不義理なお願いの お許しを頂きました
 
 この日から お二人との仕事を離れた心からの御付き合いを 終生続けさせて頂くことを心に誓いました 育てて頂いての不義理です どうしたらこの御恩にお答え出来るのか分りませんが 終生の恩人と決めた次第です 折をみて記させて頂きますが 私の人生はこの様な方々 恩人ばかりなのです そしてどの方とも終生の御付き合いでした   
 
 その後の町尻先生と 和田さんを記させて頂きます
 
 町尻先生とは先生の御逝去まで 先生自筆の葉書を年に賀状を入れ 3通 後年業界パーティで先生ともお会いする機会が増え本当に嬉しい思いでした 先生も私と逢えることを大変喜んでくださいました 当時先生はレコード協会の会長の時期でした
 後年 ご病気でも自筆の葉書を下さいました お加減が良くないのが 先生の文字が年々斜めに大きさもむらになっているので分るのです それでも先生は御逝去なされるまで葉書を下さいました  先生には通称ジュニアと呼ばれていた御子息がいらしたのを覚えています 御令息も私をご存知のはずですが いまだにご縁を頂いていないのは残念な事ですし 申し分けない事だと思っています
 
 和田さんはキングのスター照菊さん(民謡歌手)と結婚なされお幸せそうでした 業界パーティーでお会い出来るのを 私は楽しみにしてました 昭和の終わりごろだったと思いますが電話が有り 奥様の照菊さんがお亡くなりになった事 奥様には十分な看病をしたから 悔いの無い事 一人身の男を下町の人情が支えてくれている事 等など 海軍中尉の涙声に私の胸も締め付けられる思いでした
 
 和田さんを食事にお誘いしょうと何回も思いました しかし意思強固な海軍中尉です
思いながら迷っている時 「母の郷里の新潟三条に 土地を買い 家を建て 妻の運転でドライブを楽しんでいます」との手紙を頂きました 「新しい奥様」はきっとお一人になり身の周りのお世話に入らした方と納得 私は何回かの電話の内容を思い出しました

 御結婚お祝い 御新築のお祝いを選ぶ私は 本当に嬉しい思いでした
その直後も「身元がバレて カラオケ大会の審査員を始めました」と言う嬉しいお便りも頂きました
 
 平成も10年を過ぎたころ 和田さんの奥さまから封書が届きました
和田さんが 御逝去なされた事と 既に遺書を残されていたのです さすがは海軍中尉 和田寿三氏 音に聞えた名レコード・プロデューサーの最後でした 奥様には私の心の内を そしてご冥福を祈り上げることを書き記しました
 
 訃報の知らせによる50年 半世紀の恩人との 別れとは こんなにも胸深くを締め付けられる思いになるものでしょうか 町尻先生は新聞で 和田さんは奥さまよりの封書で御逝去を知りました    私は虚脱状態で 空を見ている筈の目にはお二人の姿が去来していました
 
 私の若い日の忘れられない恩人です 何も御恩に報ゆる事が出来無いままの お別れでしたが 私の胸の奥では お二人への感謝の心が 終生続いて行く事だけは間違いありません 
 

◆2006.9.14  二十歳がすぎました
藤原歌劇団の丸山清子先生のリサイタルでも私の
歌曲を取り上げて下さいました
 当時レコードと映画業界は それぞれ専属制度が曳かれている時代で 専属でないと仕事が出来ない状況でした 先ずは専属になることが第1で それはそれは狭き門そのものでした こんな時期にキングレコードの町尻量光部長を紹介して戴きました 当時の作曲家は放送とレコード等で生計を立て それ以外に自分本来の作品を書いているのが恵まれた作曲家生活でした 私の紹介者は少しでも仕事を広げるようにとの厚意から私を町尻先生に紹介して下さったのです
 
 音羽 護国寺の近くに 講談社が有ります そのすぐ脇にかなり急な坂があり それを昇ると右側に入る余り広くない道があり これを進むと木造の洋館風の建物が有ります その入り口に何故か5、6メートルの渡り廊下があり それを渡ると中廊下を挟み左右に事務室 ピアノの有るレッスン室等などがあり その奥にスタジオが有りました   町尻部長は作詞の同人誌を5、6冊を下さり この中より好きなものを書いて来る様にとの仰せです  文芸部の和田寿三氏を呼び 私の担当をする様にと言う事になりました 後で知ったことですが和田さんは あの江利チエミさんを 見出し「テネシーワルツ」で世に送り出した方で あの曲の作詞も和田さん自作のものであること また数多いヒットを飛ばすプロデューサー・ディレクターとしても有名な方でした
  
伴奏は私が勤めました
 和田さんは 元海軍中尉で背の高い二枚目です 「来週火曜の9時に書いたのを持って来なさい」とのことです 
 
 私は歌曲も書いていて 三好達治 山村慕鳥 草野心平 室生犀星などの詩で作曲し 藤原歌劇団の丸山清子先生の独唱会でも私の作品を歌って頂いたばかりでした 私は歌曲 ピアノ曲は出きるだけ書いて居りましたが 自分の技術では弾けないものもあり 専門のピアニストにお願いしていました
 ピアノ曲ではその演奏困難な書き方(ポリフォニーの技術)の曲を ピアノの友人中根伸也氏が発表会では良く演奏してくれていました その後中根氏は武蔵野音校の教授として大勢の若い門下生を世に送り出しています
  
 さて町尻先生より頂いた詩の同人誌を見て私は迷いました 歌謡曲の詩だったのです キングの町尻部長(旧子爵)が下さった同人誌です とにかく挑戦する事に心を決め5曲を書き 「火曜日の朝9時」 にキングに伺いました 
  
 9時10分前には講談社の横の坂を登って行きました そして右に曲がると何となんと4、50人の人々が集りました 私の様に若い者から中年までと多士済々です 職を待つ人々の群れの様でした 入り口の渡廊下に入りきらず廊下の外で私は待ちました 9時半頃 和田さんが出社されました 
 「おはよう御座います」と全員
 和田さんは「よう、、」 と中に消えました  長い 長い時間が経過しました
  
ピアノ曲 自分のテクニックで弾けるものは
出来るだけ弾いたものです
 11時過ぎに2人が和田さんに呼ばれました  私達は次は誰かと期待して待ちました
 10分程経ったでしょうか 先ほどの2人が 下を向き引きつった顔で出てきました
 私の隣の中年氏が「あの2人は作詞と作曲なんですよ」と教えてくれました
 12時過ぎに和田さんそして 始めて見る顔の人々7、8名が私達には気も留めずに渡り廊下を出て行きました 一番最後に町尻先生が現れ幸い私の前を通られたので 「こんにちは」と私 「やあ、、、、」と先生は坂道に消えました
  
 10分で帰られるかも知れないと思い 私は渡り廊下の造り付けの椅子に腰掛けて待ちました 作品を見て貰う半分ほどの人が姿を消して居ました 要領を心得た先輩なのでしょう 1時前には 皆帰ってきました 
  
 食事が終ったのでしょう キングの社員の方々と共に 和田さん 町尻部長が戻られました と すぐに和田さんは初めてみる顔の2人と現れ 何とキャツチボールを始めたのです 私はなんとも言えない気持で見入っているだけです 
  
 午後3時過ぎに2人が呼ばれ また下を向き出て来ました 4時過ぎに和田さんが現れ「これから 会議だから 金曜にな、、」 との事です 
 「有難う御座います」と言う声が聞こえました ここでの礼儀なのだと 知りました
  
 火曜と金曜に作品の売り込みを各ディレクターが聞く日である事 
 その日 誰が と言う順番は決められていない事
 何時になるかも 予定されていない事
 一日待っても 夕方には「有難う御座いました」で散会するのがマナーである事
  
これが1年以上も続きました 確か後半私はNHKの仕事上2週に1度にして頂けた事も覚えています
私の弾けない曲は中根伸也さん(右)にお願いし 訂正修正を加えました 私の『5つの断章』の中根さんの演奏は素晴らしいものでした 氏は武蔵野音校の教授として若い人々を世に送り出しています
 
 私には始めての体験です 集る皆が真剣に詩を書き 曲を書いているのを切実に感じました 
  
 火曜と金曜 の時は流れ去り 3ヶ月 半年 1年後には 当初の4、50名が7、8名に減少していたのは 前に書いた通りです
 私は 町尻部長を紹介して下さった方の好意を無にすることは出来ません 意地になっていた一面も有ったことも事実です 二十歳を過ぎたばかりの男には 試練の場でした ただひたすらに 待って 待っての私でした そんな私をお二人はジーっと見ていてくださったのです 春がすぎ 夏が過ぎ 冬が去りました
 
歌謡曲は人間の心を揺さぶり 振り回すほどの 凄まじい叫びでなくてはなりません 人生経験の浅い私には 歌謡曲を書くには至って居ない事を知り 実に無残な自分を見出しました あとはひたすら歌謡詞と向き合い 書くだけです しかし実態は無残な姿だけでした
  
 今思いますと あの様な最高の道場はありません 我慢 忍耐 言葉では形容し尽くせない男の生き方を お二人は私に教えて下さったのです 
  

◆2006.9.11  18歳のころ
 私は学生の17歳の秋頃から NHKの「虹のしらべ」と言うラジオ番組で編曲の仕事をさせて戴きました 北村惟章と東京シンフォニックタンゴオーケストラの演奏で当時は
ラジオ放送のみです   あの番組では多くの事を勉強させて戴きました 時代は 朝鮮戦争が始まり 軍事特需の風が日本を覆い初めていた頃です
 私は老けて見えるのを幸い 歳をサバ読み大人の仲間にスンナリと入っていきました 
ミュージック・コンクレートは編集が最重要です
編集に編集を重ねます(NHKにて)
 当時の私は リムスキー・コルサコフの管弦楽法原理から始まり 当時フランス現代のアンリー・ビユッセルの管弦楽法 等などをむさぼるように知識として取り込むのに
 精一杯の時期でした 当然の流れとして 18歳頃には無調主義(ポリフォニー) 12音楽(12トーン・システム) にのめり込んだものの 自分の才能に限界を感じ 悩みに悩みました 18歳の悩みです  その反面で調性のあるNHKでの仕事は実に楽しく思えましたし 心理的にも楽でした そんな時にミュージック・コンクレーが強烈に私を惹きつけました
 この作業はスタジオでのテープ編集が最重要です 幸いにもNHKの友人が協力をして下さいました ミユージック・コンクレートだけではなく オーケストラとの融合を試みたり 22、3歳まで悩み続けながらの研究とテープ編集が続きました
 
編集の名人M氏が助けてくれます
(NHK編集室にて)
 自分の勉学研究を重ねる傍ら この18歳の青年は実によく勉強の場を見つけ出しました
 東京 大森山王のオリガ・サファイア先生の自宅にバレースタジオがありました  京浜線横浜に向かい右の大森山王口階段を昇ると 正面に広いコンクリートの壁があり 階段が斜めに付いていて それを昇ると閑静な住宅街になります
 オリガ・サファイア女史は旧ロシア皇帝の血を引く方と言はれ〔ご本人はこの話に全く触れませんでした) 外務省の高官清水氏と結婚して日本に永住されていました
 
 オリガ先生のご指導や親交の有ったクラシック・バレーの方は 谷 桃子  貝谷八百子女史を始め数えたらきりがありません  週に一度選ばれた生徒のレッスンが有ります 知人の紹介でレッスンの稽古ピアノを弾く事をはじめました 押しかけピアノですから 謝礼は無しの約束です 私が15、6歳に読んでいたバレー音楽のスコアを現実にピアノで弾き その踊りの振り付けをを見ることは 新鮮な驚きと喜びでした
 
 いよいよチャイコフスキーの 「白鳥の湖」の振り付けを目にする機会がきました
 オリガ先生は 日劇の振り付け師でもあり 戦後の日劇のクラシックバレーは全部オリガ先生の振り付けでした
 
 振り付け当日 当然のように 日劇の中3階稽古場に私はお邪魔しました
 日劇には稽古ピアノに 太田 忠 先生が見えてます(この方は一般に知られていませんが当時の現代作曲家です) かれこれ振り付けに一週間かかったでしょうか
 私は一日も休まず 振り付けの進行と方法を見ることが出来たのは大きな勉強だったと思います またピアノの太田先生との無調主義(作曲の技法)に付いての話は大変貴重な時間でした
 太田先生ですが 稽古ピアノを弾かれていたのは生活の一手段で 作品を お書きになることが第一義だったのは言うまでも有りません
 
 抜粋ですが 「白鳥湖」の開幕です 一からの行程を学んだ私は一つ一つに納得し チャイコフスキーの高度な職人技的 芸術性に 素晴らしいの一語のみの感想でした プリマは当時日劇のスター 佐久間美千代さん(名は違っているかもしれません)だったと思います
 
 この体験は後のバレー音楽作曲依頼の時に生かされました 何人かの舞踊家からの それぞれの作曲依頼に生かす事ができたのは有りがたい事でした その何人かの舞踊家は 現在舞踊協会の理事さんになられ 後進の指導にも活躍されて居られます
  
よこはま山手聖公会前の路 今でも好きなみちです この右に元町弓道場があります
 18歳の秋だったと思いますが NHK国際局の局長さんを御紹介戴き海外放送の仕事をさせて戴きました 忘れもしません 私の作曲編曲指揮で国際局の初仕事にわざわざ局長氏がスタジオに聞きに来て下いました
 「こうゆう書き方だったら良いと思いますよ」との仰せで「また話にいらっしゃい」との御言葉まで戴きました 若い私にとっては有りがたく 忘れられない想い出であり大きな幸運でした  この国際局は 若い作曲家を育て レベルの向上を目指していたようです 暫くして NHKのあらゆる部門からの推薦で7名の作曲家が集められました この7名が日本民謡を主題として 形式自由 オケ編成も自由で海外向け放送を書くことになりました 週に2曲程度の録音でしたので十分創を練り 書くことが出来ました  
 
 3ヶ月ほどして 研究会を開くので出席する様にとの事です 国際局の会議室に私たち7名が横一列に着席しました
 反対のテーブル関係者席センターに 後の芸大教授 民俗音楽学者小泉文夫氏がいます 説明が始まりました 今までの私達の作品を小泉先生がすべてを聞いて 一人ずづの批評 論評をおっしゃるので お互いに質疑応答を自由に行って下さい との事です  NHK国際局のこの若い連中を育てようとする姿勢は本当に有りがたいことでした 小泉先生の辛口の論評と共に 私の忘れられない想い出です
 
 NHK国際局の仕事に加え 教養番組の仕事も加わり 田村町(昔のNHKの有った場所)通いも多くなりました 平行して週に一回バレーのピアノ NHKでのコンクレート作品のテープ編集 そして夜は日比谷公会堂での演奏会を何んでも聞きました(勿論天井桟敷です) この状態の私に 実に実に厳しい修行が待っていました
  

◆2006.9.6 第7回東京音楽祭世界大会現場より(2)
 昭和53年6月18日 日本武道館大ホールで 第7回東京音楽祭世界大会のオープニング 信濃国岡谷太鼓保存会の場内を圧する勇壮な演奏が始まりました オケ軍団の演奏に変わり  上手 下手よりセンター階段から順次紹介を受けて歌手が登場して来ます
 世界で一番新しい楽曲が披露される記念すべき一瞬に 歌手の方々も緊張の中にも
期待の微笑みで一杯です
 
 この登場ひとつにしても 司会のコメントに合わせ 上手下手で歌手にサインを出す
フロア・デレクター(FD) アシスタン・デレクター(AD)の腕の見せどころなのです
 司会の言葉を聞いてからでは 遅いのです ソデからセンターまでの時間 センターから階段を下りるまでの時間をランスルー(通し稽古)で身に付け 司会のコメントを食う様に早めに登場のサインを出すのです この仕事一つにしてもかなりの経験者でないと円滑に行きません 貴重な経験と 体で覚えた特技がエンディングまで続くわけです
 
 武道館を埋める観客期待の中 コンテストが進みました 世界中から  この日の為に
大きな希望を胸に 集った歌手の皆さん全員が ステージ両手そでの黒幕前に集り 真剣な表情で聞き入っているのが見られます 通常歌手は自分の出番の少々前に そでに居るものなのですが 世界大会では出場者のほとんどが 上下(かみしも)の黒幕前で他の人の歌に聞き入っていました たぶん楽屋に居たのは ゲストだけだっのではないでしょうか
 
 第7回エントリー参加者の熱唱が無事に終りました
 
 いよいよ ダイア・ナロス のゲストショーの開始です 私も話には聞いて居りましたが ステージを圧倒する威風堂々たる貫禄と歌声です ただただ見事なステージ の言葉のみでした
 一つ個人的に感じたことですが 彼女には白人の指揮者が同行して来ました ショー半ばで白人指揮者が 花で造られた見事な髪飾りを 恭しく両手で顔高くまで捧げ ゆっくりと指揮台からステージ中央の彼女に捧げ 急ぎ足で指揮台に戻りました 彼女はその髪飾りをゆっくりと髪にさし 少々のコメントをして次の曲に入りました 私はこれを見て洗練された所作と言うか アメリカのショービジネスが生んだスマートな所作と解釈しました  もし日本でこれと同じことが行われれば 必ず失笑を買うことは 間違いのないことでしょう
 ダイアナのギラギラ輝く歌声に 武道館の観客は本当に堪能した様子でした
 毎回ゲストショーで思うことなのですが アメリカのショービジネスをそのまま武道館に持って来ている事なのです 今までのゲストで東京音楽祭を いやな言葉ですがナメていたり手抜きを見せた方は一人も居ません 厳しいアメリカのショービジネスそのものを見せ聞かせてくれました
 
この音楽祭の結果や様子は直ちに世界中に報道されて居ました エントリー歌手は勿論ゲストの出来も即報道されていたのを重々承知していたのは事実だったと思います
  
 
厳正な審査結果が発表されました
 
大 賞  アル・グリーン   『愛しのベル』      アメリカ
金 賞  デビー・ブーン   『愛の祈り  』     アメリカ
銀 賞  ケイト・ブッシュ   『嘆きの天使』     イギリス
銀 賞  エモーションズ   『涙色の天使』     アメリカ
銅 賞  朴  京 姫     『雨のめぐり逢い』    韓国
銅 賞  リーバナロ&マニラ・ミユージュク・マシーン
                  『二人だけの愛』    フィリッピン
最優秀歌唱賞
      布施  明      『君の歌が聞こえる』   日本
外国審査員団賞
      西城 秀樹      『  炎  』        日本
 
 大賞のアル・グリーンは 誰も口を挟むことの出来ない歌唱でした
 静かな語りから マイクが壊れると思う程の良く張った声 いつの間にかファルセット
(うら声)に移り どこにブレス(息継ぎ)を入れているのかと思うほどのロングトーンには 魅了させられました  金賞のデビー・ブーンは大御所パット・ブーンの娘でグラミー賞で最優秀新人賞を受けているスケール・フィーリングとも超一流の大型シンガーの声をそのままに聞かせてくれました
 イギリスから参加のケイト・ブッシュですが 私の所見ですが今までに無いタイプの歌手でした ピンク・フロイドのデイブ・ギルマモアの薫陶を受け パントマイムも習得して居り 歌の中にも美しいパントマイムを取り入れての歌唱は ケイト独特の世界を展開しました 妙な表現ですが 東洋の香木の香りを感じさせた珍しい歌手でした
 
 受賞の歌手もそれぞれ見事な熱唱を聞かせてくれ観客を堪能させました
 
 特筆すべきは 最優秀歌唱賞の布施 明氏の受賞でしよう 最多出場の氏にとって
この賞は納得のゆく受賞だと言えましょう フランスから審査員として来日の作曲家ミッシェル・ルグラン氏も布施氏に一票を入れたことと思います
 外国審査員団賞の西城秀樹氏は 全編熱唱に次ぐ熱唱でこれも納得の受賞でした
 
 満場熱気の中でエンディングの最後の音を振り終えた今回の私は 何の事故もなく
無事に終った事に 感謝の心で一杯でした  
 
 面接から音合わせ 武道館でのカメリハ ランスルー 本番 と慣れからくる「何かが起きる予感」を跳ね除けたのは やはり注意力 集中力 水も漏らさぬ完全主義で 人々には悟られ無い様に行えた事だったのではないかと私は思いました 
 
しかし オケ軍団は敏感ですから 或いは 読まれていたのかも知れません 話題 態度には出して居ませんでしたが オケ軍団の暗黙での私への思いやり いたわりが無事に仕事を完成させてくれたとも言えましょう
 
 たった一曲を歌い 競う為に東京に集まった歌手さんたちです 賞外だった方々も
ステージ裏で一緒に喜び合っているのは 美しい美しい姿でした
 
 プロデューサーのギョロなべさん(渡辺正文氏の愛称)が控え室に顔を出しました
「先生ョォー サウンドINエスに顔出してョォー」 との事です ギョロなべさんは本当に
気が付く方でした 世界大会が終わり 23時から なべさんの番組サウンドINエスで特別番組として「祝賀世界大会」の放送があります なべさんとしての 精一杯の私へのねぎらいの言葉です  有りがたく言葉だけを頂きました 
 
 前回にも記しましたが この年は『日本レコード大賞20周年記念』 1月には『ザ・ベストテン』」の放送が開始されました (ベストテンの製作開始当時のトップはなべさん渡辺正文氏でした) 戦後の大衆音楽が頂点に有った時期でした
 
 

◆2006.9.3 第7回東京音楽祭世界大会現場より(1)  
 第7回東京音楽祭世界大会を迎えました
 此処までを振り返りましても 凄い世界の歌手達が この音楽祭に参加している事を改めて認識し 驚きと共に日本音楽界への貢献を実感しました
 
 この年は日本レコード大賞20周年 そして  『ザ・ベストテン』の開始と 日本の大衆音楽界に新しい風が吹き込まれた年と言えましょう
 
 世界大会も7回目を迎え 今まで何一つミスも無く 事故も無く 各セクションの完全主義の実践で守られて来ました 私の心の中にはこの辺が 何かの 隙が生れるのではないか と言う疑念があり 音楽現場は一からの出直し 全てを初心からのスタートと心掛けて第7回の仕事に入りました
 
 東京プリンスホテルでの面接も友好外交の中でも 歌手の要望を本人の安心納得のゆくまで心を尽くして務めました 既に私達の情報を十分に持っているのでしょう 全員文字通りの笑顔と笑顔の 友好外交 そのものでした
 
 赤坂 TBS Gスタジオでの音合わせも年々順調さを増し 明るさで一杯なのは本当に嬉しい思いです TBS仕切りでの15分の中で 完全な形に仕上げてゆく作業です 音合わせには報道 取材は原則的には無しの筈ですが かなりの取材陣がカメラと共に居ます TBSの記録VTRも回っていて 大変賑やかです
 歌手さん達もそれを意識してか 笑顔 笑顔で対応しています
 
 この音合わせに参加するまでの 狭き門を通過してきた人々です この音楽祭に賭ける意気込みに燃えているのが 私達にも伝わってきます
 この回になりますとこの選び抜かれた歌手達の真剣さは 鋭いものを感じさせる程の
熱意で スタジオを包みました これがプロの仕事場だと私も実感したものです 
  
 
第7回出場全員を記します
 
1  ブロンド・オン・ブロンド    『誘惑の甘い罠』     アメリカ
2  リー・ナバロ&マニラミュージック・マシーン 『二人だけの愛』 フィリピン
3  コニー・キッシンジャー    『幸せの微笑み』     アメリカ
4  リディア・バーキン      『栄光への讃歌』     フランス
5  西城秀樹           『   炎     』     日本
6  エロイーズ・ローズ     『恋は そよ風 』     アメリカ
7  アル・グリーン        『 愛しのベル』      アメリカ
8  朴  京 姫          『雨のめぐり逢い』     韓国
9  バーバラ・ディクソン     『この愛を貴方に』    イギリス
10 エモーションズ        『涙色の天使 』      アメリカ
11 五輪 真弓          『さよならだけは言わないで』   日本
12 ケイト・ブッシュ        『嘆きの天使 』      イギリス
13 ヘドバ             『バレンチノ 』       イスラエル
14 ディビー・ブーン       『 愛の祈り  』     アメリカ
15 布施  明          『君の歌が聞こえる』   日本
審査外に 渡辺真知子 『かもめが飛んだ日』 シルバー・カナリー賞の披露として
 
 そしてゲストはエンタティナーとして名高いあの ダイアナ・ロス と大豪華版です
 
 日本から出場の ゴールデン・カナリー賞を手にする戦いに勝ち抜いた三氏も 本番を思わせる歌唱で 音合わせ会場Gスタジオを沸かせました
 
 この第7回国内大会資料の御提供を頂き私は自分が指揮をしていたものの歌手の方々がいかに世界大会に出場したい意欲をお持ちだったかを改めて知りました
 第二次大戦 終戦直後流行の『星の流れに』を歌われた 菊地章子さんをはじめ
蒼々たる一枚看板の20組の方々が国内大会で競い合い これが終焉を迎えるまで続いたわけです 歌手の方々の意欲に改めて ただただ脱帽の思いです
 
 第6回での音合わせでは音響 音声さんについて記しましたが 今回はカメラさんにスポットを当てさせて頂きましょう カメラさんも資料テープでは聞いていたものの本人の歌は 初めてです 私の記憶ですが 武道館では7台のカメラまで覚えていますがそれ以上だったかも知れません 音楽祭の進行に従い各カメラがそれぞれの動きをするのを カメラ割りと言い そのカメラ割りの根底が 音合わせで本人の歌を聞き手順を決めるわけです 
 
幸いな事に第14回台本の(スタッフ稿)にカメラ割りが記されているのが出て来ましたのでご参照下さい 打ち合わせ内容は忘れましたがかなり重要な案件だったのでしょう このスタッフ稿はめずらしいのです Pの鎗居氏と大きな打ち合わせがあり その結果スタッフ稿をお届け下さったものだと思います
 
 もう時効ですからTBSさんに怒られないでしょう 英詩の左が各カメラさんの動きです 英詩の右の数字は歌の小節で4小節ごとに記入されています  音楽の立場から見ても この繊細さはさすが TBSが誇るカメラ軍団ならではの仕事と納得させられます オープニングからエンディングまでこの緻密な連続ですから息を抜く所は全く有りません これが プロ の仕事なのです 各セクションがカメラさんと同様な作業を完璧に行い一つの仕事を完成させるのです 生放送ですから撮り直しは出来ません 
 
 私は面接から始まりエンディングのお別れまで 私として出来うる限りの心で全ての人に接し 人々からは温かい思いやり優しさを頂きながら仕事をして来ました
 
 
 人生は 一度だけ です 過ぎ行く時の流れの中で二度と繰り返しの効かない生放送の音楽と対峙する私 実はギリギリの精神状態なのですが 笑顔を見せて余裕の有るが如き振る舞いを見せての 限界ギリギリの緊張感 TBSの各セクションも全く同じだったと思います 

私はTBSの この限界を超えた緊迫感が たまらなく好きでした

(次回第7回(2)に続きます)