トップページ プロフィール トピックス ワーク エッセイ 掲示板
< 1/ 2/ 3/ 4/ 5/ 6/ 7/ 8 >
◆◆エッセイ 7◆◆    


◆2006.11.04  テレビの黎明期
NHK委嘱の作品でしたが まさかレコードになるとは思いませんでした 重役S氏の「記録の・・」です
 
 有楽町に日本劇場(日劇)がありました 日劇正面右に朝日新聞社ビルがあり その6階で東芝レコードが産声を上げました 正式には東京芝浦電機株式会社レコード事業部です レーベル名 東芝レコードです
 全てに新しく 明るい雰囲気で一杯でした 私は最年少でしたが 専属作曲家として迎えられました  時代はポップス ロック ハリウッド映画主題歌 そして私の趣味のカンツォーネ シャンソンが続々と日本に上陸し 東芝レコードでその紹介に追われる私には嬉しい日々が続きました
 
 そんな多忙のある日 東芝の専務S氏に呼ばれました 先日私がNHKよりの委嘱で書き放送をした曲を重役S氏がお聞きになり 『あれは記録の意味でもレコードにする様に』とのお言葉を頂きました 『合唱 詩ミュージックコンクレートによる 幻想 不知火』  東芝の重役さんはこの放送を聞いて居て下さったのです 

 
 早速NHKに私のスコアの借り出しを依頼して(NHKでは作品を局で保管していました) 少々の加筆後 録音に備えました
 
 オーケストラは日響 (今のN響)で 合唱 ソプラノソロ共に 当時新しく建てられた音響効果の良い杉並公会堂で録音し コンクレートと語りはスタジオで かなりの時間をかけて完成させました
 
 純音楽でしかもコンクレートでは売れるはずは無いのですが レコーディング発売を決断なさった重役S氏には 深い感謝の思いで一杯です 思わぬ喜びを頂きました
 芸術の世界でも盛衰は早く 当時 コンクレートは前衛音楽の一ジャンルとして多くの学究者が手を染めていましたが 今は名前すら耳にしなくなりました 重役S氏の『記録の意味でも・・』の言葉が耳に残ります
                                                                                      
有楽町毎日新聞社のラジオ東京でラジオ東京管弦楽団との
ドラマ録音スナップ 軍楽隊より復員の方々が多く 気合いの入ったオケでしたが 若い私には良く気を使ってくれました
 
 また念願の教育レコード(幼稚園から小 中 高そして家庭でのホーム・コンサートと広範囲です)でのオーケストラ入門を始め 名曲アルバム等々と 書きたい思いの仕事ばかりをさせていただき 実に充実した毎日が続きました 
 歌謡曲も会社のご指名で かなりの数を書きましたが 自分では擬似歌謡曲なのです 一応歌謡曲らしくは聞えますが私の中では 歌の心 歌の本心が希薄なのです 大衆音楽の心を語るむずかしさはプロになった私をグイグイと締め上げてきました 心を絞り上げるような心の叫びの作品には出会う事は無く 叙情的な作品に落ち着いていました 必然的に心の整理の楽な教養班のクラシック系のものに私は傾いて行ったのです
 
 同時にNHK国際局 国内教養班の仕事 ニッポン放送での連続ドラマの作曲 ラジオ東京(のちのTBS)ではラジオ芸能ホールと若者作曲家のスタートとしては 恵まれた作曲活動でした
 
 若者が希望する仕事を与えられる喜びは 筆舌では記すことが出来ません
信じ難い力が湧いて来るのです 徹夜に録音 徹夜に録音で 自分自身で自分を鍛え上げて居る事に気付いたものです
 
オールスター大行進 大劇場で歌謡業界総出演の豪華版でした この番組の枠が後のレコード大賞に続く事になります
 
 時代はテレビ時代を迎えていました ラジオ東京はTBSテレビとして赤坂にTVスタジオを建てラジオから人材を迎えていました 暮れには『オールスター大行進』という 歌謡業界総出演の番組が生まれ それまでの歌謡番組の体質改善を見事に成功させてみせました ラジオ東京でドラマやミュージカルを書いて居た私にもTBSテレビから 音楽ショーとしての作曲 編曲 指揮のご依頼を頂きました 
 
 この番組が後のレコード大賞の放送枠となりました この『オールスター大行進』の第2部としてレコ大が放送に乗ったのは 暫くしてからでした それまでのレコ大は 午後2時台 しかも東京ローカルのみの放送が行われていました 私が最も苦手な大衆音楽の『歌揺曲』が今度はテレビとなって私に迫ってきたのです 
 私は悩みました 今の仕事の状態で充分なのです 私の心はテレビの歌謡曲の話を降ろしてもらう事で楽になります 悩みに 悩みましたが 私は歌謡曲とあえて対峙する道を選びました 改めて一番苦手な歌謡曲と対決する決心をしたのです
 
 オールスター大行進は 歌謡界各ジャンルの大スターの総出演で それはそれは贅沢な大番組で大きな支持を得て年末の目玉番組となりました 私にすれば最高の勉強の場です 新しいかたちでの歌謡曲のテレビ番組として『歌謡曲ベストテン』も生れ
歌謡曲が社会からの注目の中 『歌謡曲』の新しい道を歩み始めました
 
まだモノ黒時代でしたが「歌謡曲ベストテン」が生まれ 歌謡曲のテレビでの新しいあり方を示しました
これが 後の「ザ・ベストテン」に受けつがれたとも言えましょう
 私には最も難しい歌謡曲に身柄も心もギリギリと拘束されました キングの町尻先生 和田さんにしごかれた以上に厳しい厳しい実戦の現場だったのです  この頃から「歌謡曲 はやり歌の音楽性や品格を高めるには・・」と生意気にも密かに思いを巡らし それは町尻先生 和田さんへの御恩返しに繋がるものに思えて居たのです 
 
 昭和20年代の日本の変革は素晴らしいものでした 敗戦国と言う汚名を振り払うように新しい文化を貪欲に受け入れていきました 映画はイーストマン・カラー総天然色のワイドスクリーンになり 音楽もステレオレコード 想像もしなかったテレビ(初期はモノ黒そしてカラー)と 新しい文化に包まれました 放送 レコード テレビに関る私達もすべてが初めての体験で 一つ一つを手探りでこのテレビの黎明期を乗り越えました 携わる全員が熱い熱い思いで一杯でした 誰もが新しいものへ挑戦する姿は実に素晴らしいものです
 昭和30年 40年代の経済成長と共に 音楽業界 歌謡界もテレビ界と共に大きな昇り坂を駆け昇りました そして日本の大衆音楽として頂点であった昭和50年代を迎えるのです